原田家
御野郡福富村



木村八郎右衛門政継妻喜賀が、
「御野郡新福村原田氏天保十二」
とあり、この木村家と縁続きになる尾崎家の、伝右衛門重綱妹が御野郡新福原田氏へ、伝右衛門重綱五女が御野郡原田氏へ嫁ぎ、伝右衛門永処子栄吉が福富村原田氏を相続したという記録があります。
また、石関町平井家の長右衛門政武後妻が、
「御野郡新福村與次郎姉宝永八年」
となっていて、政武は元文元年に御野郡奥内村(岡山市奥田、奥田南町付近)にて死去とあります。

福濱村誌(昭和二年十二月十五日岡山県御津郡福濱村発行、代表佐藤馬之丞)の一八九頁に、

原田邸址
大字豊成字城にあり、今はその当時邸内にあった稲荷祠の経一明王として遺る。邸外田圃の間に墓地が残る。溝渠田圃の地形から当時の邸が判る。豊成の地名に西門、城の前、城の西、南城前、稲荷下などあるのは皆原田邸を中心として名付けたものである。
寛永七年新福新田開墾完成時、原田氏は郷士格で此の地に移住一町四面の御免地を邸宅とし、苗字帯刀御免、邸内を城の内、西門に樋を構えて水を引き邸の西囲の溝渠池水に通し、一城郭の様相であった。その最盛期は移住後七・八十年、享保から文化の頃、與次良種政、安左衛門詮門、才次郎勝宣などは主な家長である。伝聞では、邸前八町四面を所有し、字丁地と杵地との間にお抱え医者安藤の住宅を造ったので今も安藤地といわれている。邸内の溝渠池水には雁鴨が来て遊び、邸前の広面には鴻鶴が群れ来た。当時は銃猟禁制の世であったが、原田邸内よりは発砲が許されたので藩士が来て狩猟したことも多かった。藩主もよく狩猟の途次立ち寄った。宗旨は禅宗であったが、宝暦六年浜野妙法寺創立の頓写会に息女両人の名で加入している。今は絶家して墓畔雑草漫に生い茂っている。

という記述がみられますので、現地を訪ねることにしました。

マンションやアパートが建ち並ぶ一画にうち捨てられたような古い墓石が草に埋もれてありました。福濱村誌にある主な家長は各々、
與次良種政 宝暦十三年歿
安左衛門詮門 安永四年歿(室磯女寛政三年歿)
才次郎勝宣 天明八年歿(室富文化十四年歿)
となっていることが判りました。
他に、
「文化十年 與次郎勝平」
という墓碑も判読出来ました。
また、
「**院妙悟日* 原田種顕室諱美都後又改知賀上道郡平井村産父吉岡氏母竹女難波氏・ 寛政七年*月*日生自幼有志操文化十五年*月*日以病歿享年二十有四葬干舎屋西南地」
「南無妙法蓮華経 **院妙遠 宝暦五年*月*日五十一才 平井山妙廣寺檀那」
という墓碑は平井の吉岡家との重縁をうかがわせます。
「勝」「種」という諱の通字があったことが解りますが、「種」は小田郡大島村の原田氏と同じです。

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