荻野屋・荻野家
児島郡下津井村吹上
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長左衛門孝茂――久兵衛孝徳――+――長太郎 宝暦4 文政10 | 文化5 室 室 | 室 +――十郎憲隆 | 黒瀬家嗣 | 弘化2 | +――久兵衛孝光――+――長久郎孝老 ==某 ――+ | 弘化2 | 明治21 室家女テツ | | 室岡氏 | 室信岡氏 明治31 | | 室佐脇氏 | 室 | | | | +――休次郎孝吉 +――健次郎孝邦 | 分家東荻野 | 分家西荻野 | | | +――女 | 黒瀬興十朗妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――東一郎 ――春恵 | 昭和121874 昭和59 | 室久三郎娘1872 | +――久代 亀山直三郎妻
二代孝徳には異腹兄亀太郎がいましたが放蕩三昧の末に早世しました。孝徳は島根県出雲大社へ下男奉公に出ていたので、夫と亀太郎の死後、残された母親は孝徳の行方を捜していました。その話が北前船の船頭衆から孝徳に伝わり、出雲を出立しようとしていた前夜、夢枕に神様が現れて金の大黒様を授けて下さったということです。この話から荻野家の守護神が金の大黒様になったという話です。墓碑を捜しましたが、孝徳の兄、孝茂の先妻らしい人の墓碑は見当たりません。ただ、孝茂妻の墓碑には荻野屋久兵衛母文化六年歿享年九十一才とあり、たいへん長寿の人であったことは確かなようです。
孝徳の時代には家業(海運に関係した倉庫、金融などの事業?)が繁盛して備前藩の融通方(苗字帯刀免)にまでなったそうです。孝光、孝吉の兄弟は家産を7:3に分け与えられたといいます。ところが、天保の飢饉の時、孝光、孝吉の兄弟は、関西で米価が高騰していることを知って、藩の「津留め」の法律を破って米を売り捌き、所払いの刑となりました。この期間、上道郡西大寺村の医師川村昌軒や岡山城下片瀬町の某家に預かりとなっています。結局、地元の庄屋(播磨屋昆陽野家)や漁師頭などの藩への陳情、嘆願で帰郷の許しが貰えたそうですが、この事件をきっかけに、孝吉は久治郎を休次郎に改めたそうです。
孝老には一女鉄があり、これに大阪の某家から婿養子を迎えています。この人は五代友厚らと組んで北海道開拓や児島郡興除新田に投資して事業拡大を計りますがうまく行かず大正十年頃には逼塞してしまいました。
東荻野
休次郎孝吉――+――休次郎孝道――+――菊 安政6 | 明治33 | 溝手保寿妻 室星島氏 | 室谷野氏 | | +――町 +――女 | 虎次郎妻 | 佐藤家嫁 | | +――祐次郎 ――+――恒太郎 ――+――修造 +――久三郎 | 昭和14 | 平成8 | 分家花荻野 | 室 | 室 +――孝道 | | +――瀧 +――まさこ 林正綱妻 谷河浩二妻
初代はもと久治郎と名乗って、父久兵衛、兄久兵衛孝光と共に荻野家の資産拡大に努めた人です。
休次郎孝道の号煙浦は幕末の儒者齋藤拙堂から告げられています。拙堂は荻野邸を「海雲楼」と呼びました。
昭和六十年代に入って荻野家の所蔵品(初代休次郎以来収集してきた書画、骨董など)のことが岡山県知事に知られ、平成三年十一月「荻野美術館」が創設されました。
孝吉夫婦は仲良く安政六年に亡くなっていますので、明治四十一年、それぞれ背後に三代目休次郎が建てた五十回忌法要塔があります。
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健次郎孝邦――+――邦太 ――誕膺 ――博政 明治40 | 昭和8 平成3 室森實氏1848 | 室 室 | +==笵平太 ――+――彰子 | 若林氏 | 岡本幸一妻 | | | 室家女 +――迪子 | | 圓尾國武妻 +――女 | | 藤田夘助妻 +――将 | | +――女 | | 金田亀次郎妻 +――彬 | +――悦夫 昭和25
孝邦の妻照は愛媛県宇摩郡松柏村森實光五郎三女ですが、墓碑に入れられた紋は揚羽蝶で、これは実家の紋でしょうか。
花荻野
久三郎 ――+――岩太郎 ――五一郎1901―― 一郎 ――隆志 明治37 | 昭和81863 昭和63 平成9 室谷野氏1844 | 室板谷氏1870 室 | +――虎次郎1865==清太郎1894 | | 室荻野氏 | +――栄1872 | 東一郎妻 | +――柳1880 | 西澤熈蔵妻 | +――清太郎1894 虎次郎跡嗣
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