はじめに



ホームページを開設した目的
なぜ先祖調査?
家系図調べの現状
家系図調べの勧め
家系図調べを依頼する時
系譜情報公開について
個人情報保護
おことわり


ホームページを開設した目的

トップページには何十代も前の先祖を捜す夢やロマンをうたいましたが、実は、家系図調査はとても地味で根気の要る作業です。
先祖が武士(さむらい)だったという言い伝えを頼りに、いきなり家系大辞典とか○○藩の士族名簿(分限帳)など開けてみても何も判らないことにすぐ気付きます。まず、両親、祖父母、曾祖父母というように足元から着実に進んで下さい。

後述するように、自分の直系先祖だけを拾い集めて整理するだけでは正確な系図を作ることが出来ません。かつて親戚関係にあった他家の系図を参照しながら進めるわけですが、そうすると他家の系図とリンクする場面が必ず出てきます。
不充分な調査でリンク(=或る家と親戚だと主張すること)するのは、他家の系図を勝手に書き替えることにもなりかねません。

悪意を持って(例えば自分の家系を良く見せようとして)他家とリンクするのは犯罪になりますが、調査不足で誤ちを犯したり、誠意を持ってしても時に誤ることもあります。人はまちがうものです。
そこで、作成した系図、或いは過去に作成された系図をお互いに公表し合って批評できる環境が必要と思います。
科学技術研究分野では当たり前のことで、新発見・新知見を隠して学会に発表しない研究者はいませんし、学会で批判を受ければ、誤りは素直に受け入れますし、納得行かなければそれを反証出来るように更に研究を重ねて努力します。
これが現代の科学技術進歩の原動力であることは誰も疑わないでしょう。
ミスを防ぎ、より正しい情報を得るには情報公開と討論が不可欠です。
家系図調査も当然こういうやり方を取り入れる必要がありますが、今までは興味のある人が単独で調べて親族向けに書き遺すのが一般で、積極的に隠匿されてきました。

私はこういう従来のやり方を改めるために、まず、家系図に興味を持つ人達の意識改革をする必要があると思ってこのページを書いています。

立石定夫氏は著書「杏葉紋の族譜」の序で次のように述べています。
一、家系は誇ってはならない。
二、家系は虚構してはならない。
三、己の矜持を忘れてはならない(矜持=プライド)
先祖を誇りに思って頑張るのは良いことですが、他から自慢に聞こえるような話になるかどうかは、その人の人柄(思いやりの気持ち)や能力によります。立石氏の言葉は、まさに家系を調べながら自分を磨くように努力しなさいと受け取れます。

先祖を少しでも良く見たいと思うのは誰にでもある気持ちだろうと思います。

夏目漱石の「三四郎」に興味深い場面があります。
熊本の高等学校を卒業して上京する三四郎が汽車の中で不思議な男に逢います。
或る駅に停まった時に、ホームを美しい外国人女性が歩いているのを見る。
不思議な男「日露戦争に勝って、一等国になってもこんな顔じゃあだめですね。日本にはあの富士山以外に自慢できるものは何一つない、しかしこれも天然自然にあったものだから仕方ない」
三四郎「でもこれからは日本もだんだん発展するでしょう」
不思議な男「滅びるね・・・」
驚いた三四郎が黙っていると、
不思議な男「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・」
でちょっと切って三四郎の顔を見て耳を傾ける。
不思議な男「日本より頭の中のほうが広いでしょう、とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎はほんとうに熊本を出たような心持ちがした。
同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

家系図の作成でも、一度組み上げたものを何度も平気で書き直すくらいの柔らかい頭、素直な心が必要です。人の意見に耳をかして更に探求しようと云う気持ちがたいせつです。
若いうちに系図調べに取りかかって下さいと云うのも、退職して好き嫌い中心の人付き合いになる前に手を付ければ、矯正不能の独断系図を仕上げてしまう過ちに陥る心配が少しでも減るのではないかと思うからです。

たくさんの家系を調べながら多くの人と面談をしてきました。その中で、聞いていて良い気持ちがしない言葉があります。
「△△家は○○家より上だから・・・」
「△△家は○○家を連れてこの村にやってきた」
上下、支配・被支配関係を主張したいのです。家筋、家柄というのでしょうか、人は皆平等と云いながら、差別意識は競争しながら生きて行く動物の頭からなかなか離れないのです。
自分の家を贔屓する気持ちと他家を低く見たい気持ちは表裏一体です。
学校や営業成績なら上下を付けられても、頑張れば上に上がる機会もあるでしょうが、先祖のこと、済んでしまった過去のことで上下を付けられてはどうしようもありません。そのことを理解して、思いやる気持ちがなくては系図調べも成功しませんし、要らぬ争いの種を蒔くだけです。
「再チャレンジ可能な社会」とうまいことを云う政治家がいますが、百年単位の長い目で見ると、栄枯盛衰という簡単な言葉で片付けきれないほど、それぞれの家運は浮き沈みが激しいのです。
上だと思っていた家が数世紀前には下だったり、良い所だけ見ればきりがないのです。

「親苦労、子楽、孫平」「売り家と唐様で書く三代目」とか云いますが、普通の人が理解できるのはせいぜい三代の有様です。ホームページの冒頭で「おじいさん、おばあさん」でなく「ひいおじいさん、ひいおばあさん」の名前は?と問いかけているのも、歴史に関心のないごく普通に暮らす人はおそらく知らないだろう、もし知っていればその人は既にルーツ調べの門前に立っている人かも知れないという期待を持って語りかけているわけです。
親戚関係とても立派でうらやましいような家でも、せいぜい一世紀くらいのものです。
「いやいや○○家はたいした名門で・・・」
という家も数世紀の家系を辿って見てゆくとそうでもない家がたくさんあります。明治の元勲、江戸時代の大名家の出目がどうかと調べてみれば誰にでも納得できます。この逆もまた真なりで、調査を通じて私は多くの家の悲劇も見てきました。

家系図の研究は「系譜学」という一学問分野として確立できる要素を備えていると思いますが、現実には、人間の欲やわがまま、見栄に邪魔され、銭金にしようとあさましく動き回る輩まで出てきて、変わり者の道楽としか思われていないのは悲しい状況です。

なぜ
先祖調査?

先祖を知ることは、自分自身を知ることでもあります。

病気の遺伝を調べるときに家族調べをすることがあります。医者から肉親の病歴を聞かれたことがあるでしょう。先祖が煩った病気を知るおくことは、自分の健康管理上、たいへん参考になることがあります。
親の代からかかっているという近所のお医者さんは、くどくどと病状について説明して貰わなくても診て貰うだけで安心ということもあります。自分の遺伝形質=「たち」を十分知っている医者だからという安心感が根底にあるわけです。

先祖がそれぞれどのくらいの寿命を保ったのかということは自分の人生設計にも参考となります。更に、調査を通じて先祖の生きざまをのぞくことが出来れば、自分がいかに生きるかを考えるときの参考にもなりますし、自分の生き方に自信も持てるでしょう。年をとって死ぬまでの暇つぶしに先祖の調査をしても、子孫のためにはなるかも知れませんが、自分の人生にはあまりプラスにはならないでしょう。

日本では、家系図調べは定年退職後の年寄りが死ぬ前にやる道楽、暇つぶしとお考えの方が多いと思います。
自分の家だけではなく、母方、祖母の実家、母の母方の実家と、際限なく調べて行くには、遠く離れた土地に頻繁に脚を運んでお墓を調べたり人にあって聞き取り調査をしたり、問い合わせの手紙を書くというような、外に対する積極的な活動が不可欠です。
年を取れば取るほど慎重になるし、体を動かすのも億劫になってきますから、ハードルはどんどん高くなってゆきます。うまく行くときばかりではありません、挫折はつきものです。挫折をバネに頑張れるのはやはり若いうちに限ります。
複雑に糸が絡まったような親類関係を解きながら整理することは、ぼつぼつ物忘れが始まるような頃になって行うのは非能率ですし、間違いのもとです。結果的に要らぬ誤解を生むもとにもなりかねません。
また、先祖だけではなく、同じ血すじを引く人々の生きざまを知ることも、遺伝形質の共通性があるという点で、同様に参考になることもあります。また、ちょっと訪ねて話をしてみると、何となく近親者にどことなく似ている面影を発見出来て嬉しい(懐かしさを感じる)こともあります。

先祖や血族の幅広い調査というのは、鏡に映った自分の姿を隅々までよく観察すること(自分を知ること)に他なりません。鏡に映った自分の顔をながめても、目元は人並み以上に引き締まって美しいけれども、真ん中の鼻はもう少し高ければ良いのだけれど、、、などと思うこともあるでしょう。先祖や血族をながめる場合にも、もう少しというような人が見つからないとも限りません。しかし、すべてを自らの一部として受け入れる覚悟を持つことが必要です。時々、人に話して都合の良い親族の話しかしない方が居られますが、こういう態度では自分や子孫の人生の参考にするなどということは到底出来ません。

この調査の途中でたいへんお世話になった郷土史家(故)角田直一氏からご紹介頂いた一冊の本から、私が調査を続けてゆく拠り所を教えられたように思いました。このホームページを開設したのもその影響があります。その本は内村鑑三の「後世への最大遺物」という本です。

私の系図調べについて紹介(「歴史街道」2004年2月号 PHP研究所発行)して下さった平野勝巳氏は、最近の凶悪事件を起こす児童たちが、数親等以内のごく近い親族との付き合いも薄い、特殊な家庭環境に育っていることに注目しておられました。
「系図など調べて何になるのか?」という意見もありますが、古い過去帳を入れた仏壇を拝み、連綿と書きつながれた系図を所蔵しているような家は、その地域社会で代々生きてきた家で、社会的信用と責任を背負っています。その信用を根こそぎ崩して悪いことをするには並大抵の決心では出来ません。悪いことは出来ないのです。暮らしにくいと思うことさえあるかも知れませんが、そういう社会の監視の目が日本社会で犯罪抑止に役立ってきたのです。

核家族化が進み、郷里から遠く離れて、都市に親子だけが住むという家庭では、お彼岸や盆正月のお墓参りもありません。親たちにはまたその親がいて、更にまた親がいる、祖父母、曾祖父母・・・、またそれら先祖のきょうだいとその子孫たち・・・、お墓参りほど「いのちのつながり」を実感させるものはないでしょう。

中島みゆきさんの「帰省」は私の好きな詩(うた)の一つです。ふるさとの先祖を訪ねて同胞の人情に触れると、都会生活で麻痺した人間らしさを取り戻せるというメッセージと理解しています。

先祖を調べることは、この漠然とした「いのちのつながり」という実感を整理する作業にすぎません。
学校教育の場でも、差別の種をまくかも知れないなどと怖れることなく、先祖に関心を持つきっかけを与えたり、長い休みなどを利用して父母の郷里を訪ねて先祖のお墓に参ることを勧めるべきではないでしょうか。国を愛する心を教えようとする前にまずやるべきことだと思います。

かつての日本は、国のためと云い偽って多くの人々を戦争に駆り出しました。
国家とは、郷土とは、愛国心とは何かと問うてゆけば、そこには身近な親族から拡がる人間関係があることに気付くはずで、愛国心の名の下に、身近な親族を殺し合いの場に送り出そうという矛盾に気付いた人は多かったはずです。

平野氏は「歴史街道」の連載中で、家系調べに対して「癒し」というはやり言葉を使われました。
人は誰しも行く末のことが判りませんが、自分の生物学的源流はDNAを辿ることで或る程度納得出来ます。
また、同じDNAを分かち合う人を検証して行く中で、現代につながる様々な縁(えにし)を知ると、宗教的安らぎを感じることが出来るかも知れません。
神という絶対的な存在を想定する宗教にはなじみにくい日本人の体質にあうのではないでしょうか。
人の心を救えるのは神ではなくやはり人でしかないように思います。

死ぬと神になるのだという教えを信じて、自爆テロを繰り返している国があります。
人を救う目的で始まったはずの宗教で人が亡くなっているのを見るとやりきれない思いがします。
かつての日本も同じ過ちをしていました。
人は高いところを見すぎると足元に気付かなくなるようです。

家系図調べの
現状

インターネットの検索サイトで、「GENEALOGY」または「ROOTS」という単語を入力して検索すると、欧米からは非常にたくさんの系図研究に関する情報が公開されていることが判ります。

比較的歴史の浅い米国のみならず、欧州でも家系図に対する関心が高く、老若男女を問わず集まって系図調査に関する情報交換をする場がたくさん設けられています。ルーツ調査への関心度はその国の文化指標の一つです。

欧米の、いや朝鮮半島や中国でもそうかも知れませんが、家系図というのは一般に親族図というもので、調査をした人を中心に拡がる人間関係を線で結んだものです。自分から父母、父母の兄弟、祖父母、曾祖父母・・・と扇形に拡がる上昇系図、・・・曾祖父母の兄弟姉妹、祖父母の兄弟姉妹から拡がる下降系図という、判っている範囲内、可能なかぎり血族、親族のつながりを書きとどめようとしたものです。更に、欧米ではそれらがインターネット上で結ばれて巨大な連帯感の象徴になっています。家名索引(姓別索引)が設けられ、関心のある人たちが必要な情報を公開しているサイトに集まりやすい配慮もされています。

ところが、日本の今までの家系図調べは「我が家」に拘りすぎていたように思います。
つまり、日本の系図は、歴史上著名な人から自分たちに至る一本の下り線で結ばれた書類で、言外に、他家と区別し、差別する臭いがあります。お互いのつながりを認識し、連帯感を育てる(仲良くする)ための材料ではありませんでした。

家系図調べは差別のもとになるからしない方がよいのでしょうか。
系図を調べたいという気持ちは、子が親を慕うような無邪気な気持ち(本能的な欲求)から始まるものだと思います。先の大戦で中国大陸に置き去りにされた孤児達が日本の肉親を捜しにやってきて、みごとに再開を果たした場面をテレビで見て共に涙を流した人も多かったのではないでしょうか。
このような、人間の本能に関わるような部分を闇雲に押さえつけてしまうことは好ましいことではありません。闘争の本能をいろいろなルールを作ってうまく調整することで戦争を防いでいます。
私は差別意識を離れ、仲間意識を育てる家系図調べの方法を考えて行きたいと思います。

家系図調べで大切なのは、自分の家の系図だけを調べて満足するのではなく、母方、祖母の実家、母の母方の実家と、際限なく調べて行くことです。内々に自家系図を調べていると、他家との関係が見えませんから、はじめは差別の意図はなくても、次第にそういう気持ちが出てしまうかも知れません。行間にそういう気持ちを読みとられて要らぬ反感を買っても困るから家系図は公開しないという人もあるのではないかと思います。

関係する諸家の系図を同時に調べるというのは、家系図調べを山登りに喩えるといろいろなルートで頂上を目指すことに似ています。一本のルートで挫折したら別ルートでまた挑戦するというように、気分転換にもなりますし飽きることがありません。

かつての日本では、系図は代々の当主のみが管理して、親族といえども簡単には見えない、つまり、お墓の盗難や偽系図の作成に備え、墓地に塀を巡らして頑丈な扉を付けて施錠する、系図は銀行の貸金庫にでも預けるなど門外不出という家もありました。こういう情報の機密化は、かえって偽系図を創りやすい土壌を生みます。

日本に遺っている大部分の巻物系図には江戸時代以前はたいてい当主の名前しか書かれていません。こういう系図は偽系図のネタになるかも知れないし、それ自体が偽系図かも知れません。検証しようがないという点で値打ちのない系図だとも言えます。
これは、かつて滅びた家が系図を門外不出としていたのを巧く逆利用されているわけです。つまり、情報が極めて正確に確実に流れていると、誰もこれを曲げたり誤魔化したり出来なくなります。
家が隆盛になると違う姓を名乗ったり、家紋を変えたりして、独自性を強調しようという傾向も系図を飾りたいという欲求に通じているようで、系図の門外不出というのがこれを裏で助けました。

日本の歴史を見ると、各時代の支配者が各々都合がよいように自分の家系を飾り続けてきました。
徳川家は清和源氏と云いますが、実はよく判らないのです。大名家もごく一部を除いて、その出目の判らないのがほとんどです。しかし、歴史の表舞台から消えていった清和源氏の一氏族を我が家の先祖と言ってしまっても、反論する資料がないので誰も文句が言えません。ましてや武力(財力)があると人は「なるほどそうか」と思ってしまいます。ウソも百遍唱えれば本当になるのです。
支配者が代わる度に系図(歴史)が塗り替えられてきたことが、いまの日本の対外的無責任体質を造ってきたと言えるかも知れません。日本では上から下まで同じことをやってきたのです。

墓地に堅牢な塀を巡らして施錠している家は、私が知る限り、家系を粉飾している家が多い印象があります。
幼い頃、お墓に塀を巡らすと、その家から入牢するような犯罪人が出るので良くないと聞かされたことがあります。何の根拠もないこじつけのようですが、一面の真理もあるように思います。墓碑を丹念に調べられると出目が判ってしまうわけですが、塀を巡らして厳重に施錠している家は、家系を虚飾しようと云う意図があるのではないかとも疑われます。「嘘つきは泥棒のはじまり」と云いますから・・・。
また、村の共同墓地などでは、各家の境界線が不明瞭なことが多く、塀を巡らそうと境界線を引こうとすると周囲の墓地管理者との間で紛争が起きやすくなります。無用な争いの種をまくなと言う先人の教えかも知れません。
このように公共性があるので、墓地は固定資産の対象ではなく、課税もされていません。

盗んだ墓は偽系図以上に見破るのは簡単ですが、お墓も盗難に遭うことも考えて、墓地も時々写真を撮って記録しておくことくらいは必要かも知れません。盗まれる墓は江戸初期の無銘の墓ばかりです。何も彫られていないから、これは我が家のものと転用がし易いのです。情報が伏せられていると書き換えられるという系図の場合と同じです。

ごさんべえ」で紹介している家々の系図間にはリンクをいっぱい張っています。これは諸家の間で縁組みが重ねられてきたという事実が、偽系図が入り込む余地を排除できるのではないかとも考えているからです。つまり、1つの家の系図を縦に眺めただけでは本物かどうか区別が付きにくくても、親族関係を広く調べて比較検討すれば偽物はすぐに判るのです。


家系図調べの勧め

家系図を調べることは下手なパズルを作るより遥かに面白いものです。他人が作った部品を受け身で組み立てるより、自ら走り回って部品を調達し、それを考えながら加工して組み立て方がずっと面白いと思います。これは、推理小説を読んだり、テレビの刑事物語を見て楽しむのと少し似ているかも知れません。

系図情報を集めたり整理する上で、パソコンはたいへん役に立つ道具です。欧米にはデータベースを応用した、系図整理のための便利なパソコンソフトがたくさんありますが、日本ではこの方面もずいぶん遅れをとっています。米国のLeister Productionsがつくっている「REUNION」という家系図ソフト(Mac用 Ver9)はunicode対応で日本語を受け付けるようになっています。

ワープロを清書の道具に使っている人が笑われるように、家系図のソフトも先祖に対する探求心を駆り立てるような造りでないと意味がありません。ただ、入力した先祖をきれいに配列出来るというだけではダメで、どこまで判ってどこを調べる必要があるのかを考える助けにならないといけません。


家系図調べを依頼する時

家系図調べをやむを得ず誰かに依頼したいこともあるかも知れません。いまでは「行政書士」という職種の人が代行してくれることもあります。こういう人は「守秘義務」といって、仕事上知り得た秘密を第三者に漏らしてはいけないという法的な責任を国家から課せられています。Googleの検索で「行政書士 家系図」などと入力して検索してみて下さい。行政書士は職権で戸籍・除籍謄本等の請求が代行出来るのです。そういう系図はふつう歴史上の有名人が登場するものではありませんが、身近な親族がもれなく正確に記されたものになり、ご子孫にとって貴重な宝になるはずです。
「守秘義務」を課せられた仕事をしている人は、仕事を任せられるかの判断材料になります。しかし、会計監査等と同様、親族内はもちろん、歴史的知識のある第三者にも出来上がった系図の検討をしてもらったほうが良いでしょう。歴史的知識のある第三者には、たとえば中・高校などで歴史教育をしていたような人が挙げられるでしょう。教師という職業も「守秘義務」があります。

昔から、系図師といって、系図作りを商売にした人達がいました。依頼者に気に入られようと、歴史上の有名人に無理につなぐような系図を創ったり、逼塞したり絶家した本家にうまくつないで本家分家を逆転させることもあります。所詮、他人の(と思っている)系図ですから、作成者の誠意によって出来不出来が左右され、ずいぶんいい加減な系図が作られます。
「系図というのは今活躍している人のためのもの」と云いながら、逼塞した本家の子孫につながる線を分家の依頼者へと伸ばす系図師がいます。
「巧言令色少なし仁」といいますが、煽てたり上手い冗談を混ぜながらいつの間にか法外な買い物をさせられることがあります。系図師がまさにこれで、系図というのは後々に遺るものですから、騙されて子々孫々に恥を伝えないようにご注意下さい。
金銭目当てで系図を作る輩と、本物の歴史家(研究者)の違いは、絶家したり逼塞した家を丁寧に調べているかどうかという態度で判りますから、もし依頼を考えている人の著作物があれば目を通してみて下さい。

系図を調べさせてくれと云って接近し、しばらくすると、こんな本ができたから買わないかと誘われたという話を聞いたことがありますが、ずいぶん法外な値が付けられていたり、同じ本でも人によって価格がずいぶんちがうことがあります。こういうのも書籍販売を装って系図を売る、系図師の手口の一つです。

新興宗教が系図をネタに接近してくることもありますのでご注意下さい。


系譜情報公開について

なぜ系図が公開されにくいのか考えてみました。

アレックス・ヘイリーの「ルーツ」がテレビドラマ化されて放映されたことがありました。アフリカから奴隷として連れてこられたクンタ・キンテの娘キジーが、親しくなった農園主の娘から先祖の栄光話を聞かされ、
「私の家も・・・」
と話しはじめた時に、農園主の娘の顔がくもって中断する場面がありました。奴隷の子が主人に向かって先祖の自慢話をするのはおかしいという設定にすぎないのかも知れませんが、このような身分差、上司と部下というような立場上の違いが全くない間柄でも、先祖の紹介は単に相手の自慢話を聞かされて迷惑と思われることがあります。歴史に興味のない人であればなおのことです。要らぬ争いの種をまくのは避けるべきで、家系図を公表しない理由の一つはこの辺りにあるようです。

知らない家から、うちの家と親類かも知れないと云われると迷惑だという気持ちがあるようです。
親戚付き合いは大なり小なり物心両面の負担を伴いますから、親類が増えるのは御免だ、誰も彼もから親類だといわれるのは困るわけです。
磯田道史著「武士の家計簿」の中に、武家社会で親族間の金融組織があったことが紹介されています。その金融組織を円滑に運営できるように婚姻も考えられていたというのです。
現代では街の一等地を消費者金融が占めるほど金貸し業は大繁盛です。こういう社会的ニーズをかつて支えていたのは親族間の金融組織ではなかったかと思われます。
私が調査してきた家には、新田開発という大規模公共事業に積極的に取り組んできた家がかなりあります。それらは功績によって庄屋、大庄屋に任命されていますから、それらの縁組みは家格によるものと思われがちですが、実はその事業を支えたのは親族間の金融や連帯保証だったのかも知れません。

たくさんの人のつながりの中には、遺伝性の病気を持つ人、世間体の悪い行状の人もいるかも知れないので不安だということもあるかもしれません。その様なわけのわからない人を組み込んだ系図のネタにはされたくないという気持ちもあるようです。

系図というのは釣書(つりがき)と同様に私的なものなので、公開はすべきでないと云われた方がありました。釣書とは、結婚相手を募集するときに交わす宣伝書のようなものです。氏名、続柄、学歴、職業一通り書いてあり、家系図にもここまで記したものもあります。

歴史の教科書に登場するような、びっくりするような先祖を系図に書いていることがあります。とても真偽のほどが疑わしいので、こんなものを他人に見せては恥ずかしい、どう思われるだろうと心配される方があります。
系図は先祖の誰かが作成したものですから、間違いが見つかって先祖と一緒に恥をかくのはご免だというわけです。

一般の系図は素人が書いたものですから、丁寧に見て行くと間違いが必ず見つかるものです。小さな間違いを取り上げて全体の記述を疑ってみるのも必要ですが、それで終わってしまうのはとても残念で、墓誌や過去帳、他家に遺る同様の史料によって一つずつ検証することがたいせつだと思います。

系図に他家のことも書いていることがあります。むかしの親戚関係が多いのですが、時に、勤めていた家(仕えていた主人の家)や雇っていた人の家(使用人の家)が数代に渡って述べられていることもあります。
これらは仕事や付き合いを円滑にするための予備知識として子孫に伝えようとしたようです。
そういう情報が一緒に表に出ると、他家の迷惑になると心配されることもあります。
むかしの親戚関係であっても、お互いの関係に必ずしも同じ認識がされているとは限りません。お互いに相手を分家と思っていることもあります。表に出すことで一騒動持ち上がることもあります。

家系図調べを否定されるけっこう多い理由として、家の不幸な歴史、不名誉な過去を掘り起こしたくないということがあり、系図公表についても同様の心配をされることがあります。
不幸な歴史、不名誉な過去としては、何代か前の先祖が庶子(正妻の子でない)だとか、遺伝的な(或いはそう考えられた)病気を持つ人がいたとか、反社会的行動があったというようなことがあります。


個人情報保護

個人情報保護法は本来、住民基本台帳のデジタル化に備えられたものですが、日本では何から何まで個人情報だと云うようになり、すでに様々な問題を引き起こしています。一方では相変わらず銀行や企業から個人情報が漏れる事件もおきています。

法律に定義されている個人情報とは、
「生存する個人に関する情報で、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述、または個人別に付けられた番号、記号その他の符号、画像もしくは音声によって当該個人を識別できる情報。当該情報だけでは識別できないが、他の情報と容易に照合することが出来、それによって当該個人を識別できる情報も含む」
とありますので、生存者の氏名を家系図に載せなければ法に触れることはありません。
また、家系図に載せられている生存者氏名からある生存個人を想起出来るとしても、それは一般的な第三者ではありえませんので(知人とか親族に限られる)、家系図に生存者の氏名を載せること自体が法律違反ともいえないと思います。

家系図情報はプライバシーに触れるおそれがあるといい、インターネット上に置くことを否定する意見もあります。
しかし、氏名と生存年代の羅列は一般的な第三者が見ても何処の誰のことだか判りません。
関心を持って読む方は、掲載している家について知っている人か、親族なのです。


ことわり

なお、私の系図調査は純粋に先祖を慕う気持ちから始めたことで営利目的はありません。
宗教団体との関係も一切ありません。

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