歴史考察


系図調査をしていると日本歴史を肌で感じることも出来ます。
歴史教科書が問題にされていますが、いちばん大切なのは自分の頭で考えることを学ばせることです。
古きをたずねて新しきを知ると云いますが、逆に今の人の感情をもって過去を眺めてみると、学校で教わった歴史を見直すこともできます。



士農工商の身分制度
名主(庄屋)
武士のリクルートセンター
かくれキリシタン
日蓮宗不受布施派
備中窪屋郡倉敷村の歴史から


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歴史教科書には、江戸時代には武士だけが姓を名乗ることを許され、一般の人々は公には姓を名乗ることが出来なかったと書いてあります。しかし、 多くの家では戦国時代に使っていた姓をだいじにしていたようです。
寺の過去帳や戸籍台帳、また公文書の署名には姓は記されていませんが、村内の取り決め文書、墓碑や位牌には、きちんと姓が入っています。
田舎に行くと同じ姓の集落が至る所にあります。これは、明治の戸籍編製時に一括して同じ姓をつけたのではなくて、その起源は江戸時代より前の歴史にさかのぼります。
必要のなくなった姓は江戸時代の間に忘れられたのではないかと心配する人もいますが、必要がないのは支配者の勝手で、そのために先祖から受け継いだたいせつな姓を棄てるような人はいませんでした。
表向き姓を名乗れないことを逆手にとって、家の独自性を主張するために別の姓を名乗る家さえありました。しかし、そういう改姓も村内ではきちんと語り継がれています。つまり、村内のグループ分けのためには姓は重要だったのです。
人は「してはいけない!」と云われると余計に「したくなる」ものです。姓の公称を禁じられたことで、姓が絶滅したのではなくて、かえって生命力を与えられたのです。

士農工商という身分制度があって、異なる身分の間の通婚は禁じられていたとも云いますが、これも実際にそんなことが徹底できたはずはありません。
身分制度を作った目的は、武士とそれ以外の人を明確に分けて治安を維持しようとしたもので(兵農分離)、士農工商は徳川家のオリジナルではなく、秀吉が 「刀狩り」を行ったのに始まります。
ですから、職種で人を差別しようという制度ではなく、そのような解釈は後世の(明治以降の)教育から生まれたものと思います。
現代でも、別々の職業についた二人の兄弟の子孫はお互いに親族関係を続けるように、江戸時代のはじめに上の方から号令をかけても、各々の子孫は お互いに親戚付き合いは続けていました。
法律を型どおり解釈して、戸籍上は武士の家の養女にして農家や商家の女性が侍のところに嫁ぐこともあったようですが、そういうことはむしろ例外的ではなかったかと思います。
幕藩体制が確立して来たら身分制度も広く受け入れられたかというと、そうではなくて、逆にさらに崩れて行きました。貨幣経済が浸透して、身分もお金で売買するようになっていったからです。
系図調査をしていると、「もと士族」ということを誇らしげに云う年寄が居られたり、明治の頃の碑文に「士族」という文字が刻まれているのを見ますが、これは明治政府の教育の名残です。
うちは「士族」だからそんな家との縁組みはありませんと云う人に出会って、その歴史認識の貧弱さに呆れることがあります。

豊臣秀吉が刀狩りをする前には、日本全国ほとんどの人が武士でした。刀を持って自分の土地を守らなければ生きて行けない時代だったのです。
士族だったというのも、士族という言葉自体が明治のものですから、幕府や藩に献金した農工商民が武士(殆どが何人扶持という低禄)に取り立てられた場合を含みます。江戸時代から武士であったとしても、低禄で生活が成り立たないために農工商を兼業している場合もありました。これらはお城の周りの侍屋敷に住んでいたわけではなく、町人街や農村だったりするわけで、先祖代々○○村に住んでいることが判っていながら、分限帳(藩の侍名簿)を開けて先祖の名前を捜すのは無駄なのです。

お城の周りの侍屋敷に住んでいた上禄(高給)武士の子孫が、先祖が家老だったとか奉行だったということはあっても、漠然と武士だったというのを聞いたことはありません。
差別化しよう(したい)という人の意識から逆に推測すれば、低禄だったり、やっとのこと士に取り立てられ、まかり間違えば農工商と混同されかねないような士だからこそ、ことさら士族という称に拘るのです。

・名主
(庄屋)  目次に戻る
                  
兵農分離が行われる以前の戦国時代の村々では、有力者を中心に刀を持って皆で力を合わせて自分たちの土地を守っていました。こういう、殆どドングリの背比べの有力者中から、少しずつ力を蓄えて近隣の村々、近郷、更には近国へと影響力を拡げていったものが戦国大名です。
江戸時代の大名の中には、平安時代以来の歴史がある家もいくつかありますが、多くはその先祖が明らかでないことが多いのです。下剋上というのを歴史で習いますが、長い年月の間には実際のところ何が起こっているのかは判りません。何度も繰り返される戦いに生き残って大きくなる家もあれば、攻め滅ぼされた家もありました。
経済力と武力は違う、昔と今では人の考え方が違うと云われるかも知れませんが、百年(ほぼ三世代)経てば栄枯盛衰が如実に観察できますので、意外に、中世に身分の低かった人々が近世になって社会の中枢で活躍していたという可能性も否定できませんし、その逆もあり得ると思います。
戦国時代に村の有力者で、いったん戦になれば、ちょっとした大部隊に号令をかけるような武将も江戸時代に入ると、或る者は大名家に 就職して武士となったり、農家となったり、商家となったようです。
大名家に就職した者は、自分の屋敷を与えられる位で、特別に土地を与えられてはいません。与えられるのは給料のみです。もともと持っていた広い土地を手放 してまで、就職する人はいないですから、戦国時代以降、大名家に武士(職業軍人)として就職した人は次男坊以下の、先祖から譲り受けた資産を持たない人だったろうと思います。
領地内の人民をうまくまとめるには、それに役立つような人間を利用しない手はありません。戦国時代から有力者として村を指揮してきた小隊、大隊の長は名主 (庄屋)として領主に利用されるようになります。ですから、江戸時代の名主(庄屋)など村役人を勤めた家は、その先祖は大名家と変わらない、或いはそれ以上の有力者であったものもあり、「武士などに決してひけはとらない」という自信を持って江戸時代以降も生き抜いていました。

・武士の
リクルートセンター  目次に戻る

清水彌右衛門貞直は戦国時代末に近江國で生まれ、祖父入兵衛が仕えていた山崎家の領国替えに伴って、摂津國三田城(兵庫県)、因幡國若桜城(鳥取県)、備中国成羽(岡山県)と転居しながら成長し、父の跡を嗣いで山崎家に出仕しています。
山崎家はその後幕命によって肥後國の島原の乱の後始末係となり、肥後天草四万石の城主となりました。これによって彌右衛門も島原に移りますが、この乱後処理の功績によって、山崎家は讃岐國丸亀(香川県丸亀市)の五万石の領主となります。
しかし、不幸にして山崎家は末期養子の禁に触れて跡継がなく改易(取り潰し)となります。このため、彌右衛門は、備中松山水谷出羽守の家中に宗門改役として二百石を貰って仕えています。しかし、この水谷家もまた末期養子の禁に触れて改易されてしまいます。二度目の浪人を経験した彌右衛門はもうかなりの老齢でしたので、妹が嫁いでいた備中国浅口郡西阿知村(倉敷市西阿知)新見領の庄屋、丸川家を頼って西阿知村に隠居し、宝永三年に九十一才で死去しま した。
彌右衛門の生涯には二度の浪人生活があります。山崎家が潰れた後に、水谷家にうまく就職できたのは何故でしょうか?しかも、水谷家では結構な地位についています。また、彌右衛門の実弟および義弟も潰れる前の丸亀山崎家に就職していたと思われ、山崎家改易後は、それぞれ各地の有力大名にけっこう良い給料で (数百石)再就職しています。

江戸時代の初期には各地で大名の改易、転封(国替え)が行われました。取り潰されたり、領地を減らされる大名があれば、新たに領地を与えられたり、加増さ れる大名もありました。当然それらには家臣団の増減移動を伴いますが、彌右衛門の一族の履歴から考えて、現代の就職情報センターによく似たような組織があったように思われます。これは、浪人が増えすぎて治安が悪くなったり、一方で極端な人材不足が起こって領国経営が立ち行かなくなることを未然に防ぐためにも有り得ることです。

江戸時代の武士の就職活動に使われたと思われる一通の書類があります。
彌右衛門の子文太夫(のち彦右衛門)が、水谷家の改易後に他の大名に再仕官するときに提出したものだろうと思います。親類の記録や系図など、自分の家の出所由緒を証明できる書類は土地を持たない武士にとっては、現代の国家免許の様に大切なものだったかも知れません。
逆を云えば、自分の土地を耕している農民にとっては、系図や由緒書きはほとんど価値のないもの、先祖祭りの補助的な道具、即ち代々書き継いできた過去帳の方が大切であったはずです。農民や商人でも、藩に多大の貢献(=経済貢献)をして士分に取り立てられる機会があると、あわてていい加減な先祖書(系図)を捏造しているものもあります。しかし、現代社会でも履歴書だけで採用される甘い会社はないように、けっきょく能力がないとダメですから、先祖書(系図)は、本気で検査されることはありませんでした。
「うちには系図がある」と自慢する人がありますが、もともと上記のような経緯でうまれたものだと知っていれば、畏れ入ることなど全くありません。

・かくれ
キリシタン  目次に戻る

彌右衛門の墓碑には「天譽一鑑居士」と彫ってあります。また、彌右衛門の長女の夫、神原長十郎の戒名は「一方圓実居士」と記録があります。一説に、この「一」「天」のような「十字」を含む文字は故人が生前にかくれキリシタンであったことを示していると云われます。
もしも彌右衛門がキリシタンであったならば、山崎家が行った島原の乱後の領民管理のやり方はかなり温情的なものであったかも知れませんし、彌右衛門を宗門改役に登用した水谷家もまたキリシタンに同情的な大名であったのかも知れません。
江戸幕府の人民(=人心)支配は教科書で学んだほど簡単な話ではありませんでした。

・日蓮宗
不受布施派  目次に戻る

日蓮宗に不受布施派という一派があります。
不受布施というのは、他宗のものからは布施を受けず、またそういう者のためにお経を上げることもしないという考 え方で、もともと日蓮宗の教義の一つでした。
秀吉が天下統一を成し遂げ、宗教界をも支配するために、自分の先祖供養をするから各宗派から坊主を出席させるようにという命令を出した時、日蓮宗内で、この教義を頑固に守って秀吉の命令に従わない者が分派して出来たのが不受布施派です。こういう頑固な集団はいつの世にも居て、たいてい支配者から弾圧 をされるのですが、江戸時代になっても日蓮宗不受布施派は、キリシタンと同様に弾圧され続けました。

備前国はもともと日蓮宗の信者が多いところですが、この不受布施派の信徒も多く、津高郡金川村の江田家も江戸時代にこの国禁の宗教を信奉する家でした。仏壇を二つ用意したり、弾圧を受けた僧侶を匿う部屋を屋根裏に設けたり、或いは隠れて経済援助を続けました。
この江田家の江戸時代の親族関係を探ってみると、同じ不受布施派の家のほかに、不受布施でない日蓮宗の家もけっこう多いことが判ります。もともと同じ宗派の家ですから皆で協力して隠し通したのでしょうが、幕府の支配力よりも民衆のネットワークの方がはるかに強固で広いことがうかがえます。



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