金谷家・下金屋
赤坂郡周匝村



駒井家の過去帳にこの家の先祖が記してあり、周迎下金屋とはどこの家だろう?と思っていました。

平成11年9月、「吉井町史」をめくっていましたら、江戸時代の周匝町並町絵図の一部と下金屋助右衛門宅についての記録、更に、同所日蓮宗蓮現寺にある大庄屋金谷常右衛門の墓碑写真をみつけました。その時、もしかしたら下金屋の墓地も同じ寺にあるのではないかと直感しました。
周匝金谷氏の系図をみると、牛窓の大庄屋那須家との親戚関係が書いてあり、これはいよいよ蓮現寺を訪ねてみなくてはならないと思いました。というのは、駒井家過去帳に岡山市藤井の安井家に嫁いだ人の記録があり、安井家の墓地に確認に行ったとき、牛窓那須家の墓碑が五、六基建てられているのを見ていたからです。
次の日曜日、早朝に家を出て、周匝の蓮現寺を訪ねてみました。大庄屋常右衛門光経の墓碑はすぐに判り、さっそく確認作業に入りました。写しを片手に他家の墓碑も含めて境内墓地を見て歩くと、過去帳に記された人と同じ墓碑が、金谷宗家の墓地と思われる区画内に見つかったのです。墓碑には、
「妙法 清受院妙遊日閑信女、文化9年秋8月25日歿、金谷門兵衛季粲後妻利遠、66歳」
駒井家の過去帳には、
「清寿院妙遊、文化9年8月25日歿、周迎下金屋母」
と書いてあります。
「受」「寿」は同音異字で、他家の仏様を過去帳に記す場合に時々同じ様な誤記がみられます。「日閑」は日蓮宗によく使われる法名の文字で、生前の寺への貢献などを配慮して死後に寺から追加されることがよくありました。周迎というのがよく解りませんでしたが、後に地名辞典や「吉井町史」を改めて見直してみると、周匝をかつて周と書いたようです。8世紀の資料に周郷木簡というものが残っているそうです。ともかく、歿年月日と戒名が一致していますから、駒井家の過去帳に記された仏様と金谷本家に建てられている墓碑の仏様は同一の人であることに間違いありません。金谷家の屋号はどうやら下金屋であったらしいということが判りました。

過去帳に、その家で亡くなった人以外を記している事例はよく見かけます。それらは、他家に嫁や養子に出た人、当主の配偶者の実父母で、血縁のない人を記すことはまずありません。系図や由緒書と違って、過去帳か位牌というものはごく内輪の取り扱いを受けるもので、妙遊信女は駒井家に嫁いできたある人の実母、或いは駒井家から嫁いだ人ではないかと考えられます。

金谷氏の先祖書は「(源)八幡太郎義家8代後胤治部少輔本国越後建武2年義貞節便砌関東へ下る」から始まります。その跡を嗣いだ修理大輔経氏は、実は田中又太郎の子で、歴應3年四国備後鞆にて合戦して備後に住みました。それから3代が不明ですが、この間に佐伯と周匝の一族が分かれたと思われます。

佐伯金谷家の先祖山城守は、文明3年備後國より山名に属し備前國福岡にて浦上氏と合戦しました。その子修理太夫が佐伯に居住しました。金平は天正9年毛利に属し作州岩屋城に於て濱口某と合戦して勝利しています。その子太郎右衛門は宇喜多秀家に従い朝鮮征伐に行っていますが、宇喜多家滅亡後は浪人して子の新兵衛は郷士となって帰農します。その子太郎右衛門の妻は父井(佐伯町)の近藤氏で、この人は延宝8年に亡くなっています。

備前軍記、美作太平記を開けてみると、天正9年の作州岩屋城陥落の記事があります。桜井越中守を大将として、大蔵、片山、林屋、金屋の諸将が岩屋城を守っていた浜口某を攻めて城を奪ったと書いてあります。金屋という武将まで出ています。周匝金谷一族と後述の佐伯金谷家の分家は「カナダニ」と読みますが、現在でも関東一円の金谷姓は「カナヤ」と読むのが一般だそうです。金屋はいくら頑張ってもカナタニとは読めませんので、佐伯、周匝の金谷家の先祖が関東からやって来たという伝承と併せるとたいへん興味深いと思います。

金谷
治部少輔――修理大輔経氏――+・・・・・――山城守――修理太夫――金平――太郎右衛門――新兵衛――太郎右衛門――+
              |                             室万代氏 室近藤氏   |
              +――経時                                     |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――女 周匝金谷家へ嫁  ――+――チョウ 周匝金谷家嫁
|               |
+――新兵衛          +――太郎右衛門       ――三郎兵衛経貞――+――女 武田清蔵妻
|  室山中氏         |  室寺尾氏          安永1     |
|  室服部氏         |                室武田氏    +――新兵衛経浮    ―――+
|               +――治郎左衛門 稲蒔金谷家嗣          |  文政4         |
+――妙玄 和気村秋山家嫁   |                        |  室江田氏        |
|               +――源五右衛門 和気秋山家嗣          |              |
+――市左衛門 稲蒔村へ分家                           +――武田五兵衛妻      |
                                         |              |
                                         +――女 武田宗兵衛妻    |
                                         |              |
                                         +――女 黒田太郎兵衛妻   |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――三郎兵衛経寿
|  文化11

+――黒田義房妻

佐伯金谷家初代太郎右衛門、2代新兵衛の墓碑は同所の本久寺庭園にあるそうです。その後の墓碑は同所妙泉寺裏の藪の中に埋もれているそうです。かつてここを調査された方から墓碑文を記録した書類を拝見する機会に恵まれましたので、武田正太氏から戴いた佐伯金谷家の系図と照合してみました。正太氏所蔵系図には生歿年の記入が一切無いのでたいへん難解な系図でした。上記の系図中にある武田、黒田という諸家はいずれも正太氏の先祖又は株家になります。江田氏は金川村とあるので古代屋一族だと思いますが、江田家と武田家も親族です。最後の?当主経寿はその父経浮よりも先に亡くなっていて、その妹は武田一族に嫁いでいるわけです。即ち、佐伯の名門金谷家が絶家したのを惜しんで、当時一番近しかった武田家が金谷家の系譜と両家の重縁関係を書き残したものと思います。

妙泉寺は元和5年に日蓮宗不受布施派の祖日奥が備前國を廻ったとき宿泊した金谷新兵衛尉の住居跡です。同寺歴代住職墓地入り口に、延享2年、宝永2という歿年に金谷氏とのみ彫られた家型の墓(らんとう)も建っています。

佐伯武田家の墓地を隈無く捜してみると、武田孫左衛門久敬夫婦の並びに、
「○○院妙歌信女、天保5年、金谷藤九郎妻」
「○○院宗周信士、嘉永7年、小國宗右衛門」
「○○院妙持信女、天保14年、小國宗右衛門妻」
また、近くに黒田姓の墓碑が建ち並んだ所があり、
「○○院妙久、安政2年歿、享年71、黒田太郎兵衛義房室菊女、金谷新兵衛経浮娘」
「○○院妙永尼、天保4年、黒田太郎兵衛義隆妻いよ」

などの墓碑があり、なんと武田姓の新しい墓碑までありました。小國と彫られたいくつかの墓碑は蔦に絡まり草木に埋もれてたいへんひどい状況になっていましたが、これらは武田正太氏から戴いた系図を裏付ける貴重な資料となりました。



市左衛門正直は元禄年中に佐伯陣屋土倉家(備前岡山藩家老)の山奉行として稲蒔村に居住、実子がないので本家の甥治郎左衛門祐義を養子に迎えました。

市左衛門正直==治郎左衛門祐義==五藤太正勝――治郎左衛門正成==三郎介正光――後藤太維徳――好太郎成美――――+
享保20    本家より     下山氏    文政4      野崎氏    明治22   大正10     |
        宝暦11     文化11            天保14   室真殿氏   室武田氏     |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――市治
|  昭和12
|  室平尾氏

+――小金太
   室田中氏

正勝の実家は後に岡山に出て菓子司をはじめます。これが今の下山松寿軒だそうです。

大庄屋常右衛門が備前藩に提出した「由緒書」は、「経氏四男稲武丸は高橋直忠に伴われ伯耆安木郷に潜伏後安木経時と改名」から始まります。
その子某は美作国加茂郷へ移住し、その子又兵衛氏光は周匝城主笹部勘次郎に仕えますが、宇喜多氏に攻められ天正7年に同城が落ちたのちは帰農したようです。以下次のような流れになります。

安木
経時――某――又兵衛氏光――助右衛門――助右衛門光與・・八郎左衛門・・清可  ・・+・・六郎右衛門・・・・・・・+
              寛永14? 天和3            元禄13  |  享保2         |
                                         |              |
                                         +――八郎左衛門       |
                                            享保7         |
                                                        |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――助右衛門義光――+――三郎右衛門信光  ――門兵衛季粲――三郎右衛門光長――助太郎
   宝暦4     |  天明5        天明5    天保8      天保3
           |
           +――女 近藤彦右衛門妻

駒井家過去帳から考えると、この流れが「下金屋」となると思います。しかし、周匝の一族は江戸初期のつながりがたいへん解りにくくなっています。

八郎左衛門――又兵衛光信――廣右衛門――+――廣右衛門光明――+――廣右衛門光利 ――+――女 茶屋喜八妻
享保7    安永9    安永4   |  文化4     |  嘉永4      |
       室金谷氏   室下村氏  |          |           +――彦太郎種光
                    +――常右衛門光経  +――女 難波栄元妻     吉田家嗣

光信の妻は金谷六郎兵衛娘とあり同族と思われます。下金屋の他に中金屋という家もあったようです。代々廣右衛門を襲名していますが、彦太郎種光が邑久郡日生町の筑前屋吉田家を嗣いだために、周匝では光経の子孫が祭祀を引き継ぐことになったようです。

彦太郎種光――又市郎――+―― 一二―――+――芳子
吉田家嗣   冒姓金谷 |  昭和24  |  守屋信一妻
       大正15 |  室田渕氏  |
       室安井氏 |  室某氏   +――女
            |        |  大野東妻
            +――精蔵    |
            |        +――義兼
            +――大介       昭和60
            |
            +――材吉
            |
            +――女 内藤馬蔵妻
            |
            +――女 大丸巌妻

種光の長男彦治は吉田家を嗣ぎますが、次男又市郎が金谷姓を名乗っています。又市郎(孝蔵)の墓碑文によると、廣右衛門は治部大輔経氏から10余代後の人と書いてあります。

常右衛門光経――+――又兵衛和光
天保10    |  天保4
室太田原氏   |
那須氏    +――復右衛門清保
        |  尾崎家嗣
        |
        +――後蔵有光
        |
        +――又右衛門光季――又四郎 ――+――敬太郎
           室三宅氏    明治14  |  大正11
                         |
                         +――孫次郎 ――半兵衛 ――+――常信
                            昭和15  昭和26  |  昭和54
                                        |
                                        +――男

光経は備前領の大庄屋を勤めています。光経の長男和光が絶家した宗家下金屋の祭祀を嗣いだところが、これも早世したために、末弟の光季が宗家を引き継いだのだろうと思います。有光は分家した光経の跡を嗣いだようですが、この家には屋号口伝はありません。
倉敷市加須山尾崎家の系図に、
「復右衛門清保、周匝金谷常右衛門光経次男、文政2年歿、享年33、○譽○心禅定門」
という記載があます。

後蔵有光――+――助右衛門光衛――+――秦太郎光之――+――政太郎
慶應4   |  明治14    |  昭和12   |  平成7
室那須氏  |  室井上氏    |  室秋山氏   |  室石川氏
      |          |         |
      +――松四郎光俊   +――美弥     +――修三
      |   明治25      片山重熈妻  |  昭和62
      |                    |  室安原氏
      +――喜奴                |
         片山忠得妻             +――潤三
                           |  守屋家嗣
                           |
                           +――綾太
                              平成9

「由緒書」にある八郎左衛門光保、又右衛門光明、常右衛門氏詮、八郎左衛門英経に相当する墓碑がよく判りませんでしたが、墓地を隈無く探すと、
「顕了院妙静、享和3年歿、享年61、金谷常右衛門母」
という墓碑が見つかりました。これがどうやら英経妻の墓碑のようです。
上記の「顕了院妙静」と並びに、
「顕妙院了廣、安永4年歿、金谷廣右衛門」
という墓碑があり、戒名の文字共通性からも夫婦と断定できます。
更に、その近くに
「圓岳院浄心、後金谷廣右衛門、文化4年、享年49歳」
「圓月院妙翫日遊信女、金谷廣右衛門光利母、天保13年歿、享年76」
「金谷廣右衛門光利、嘉永4年、享年61、唱楽齋常行日持信士」
という墓碑があります。

明治24年の岡山県地主調査録では、秦太郎は23円4銭7厘の直接国税を納め、周匝村内で13番目の納税者です。政太郎夫婦の墓碑に彫られている家紋は丸に剣酢漿草で、その隣に祀られている
「金谷八郎左衛門、享保7年歿、○○院古水日龍居士」
という墓碑が、歿年月日から系図の八郎左衛門光保に相当するはずです。



倉敷市天城の中島家に伝えられた富次郎栄武の縁合覚書に次のような記述があります。

一、軽部の親類
○加茂岡崎氏へ養子に参る
○下庄難波氏へ同
○箭田守屋分家
○中島村源左衛門子為蔵・・・参今の・三郎父也母は岡山片瀬町は松取源五郎家より此姉辰巳平六妻(判読不明文字有り)
○西郡守安氏も縁あり
○総社戎屋も同断
○天城亀屋藤原方へ旧縁あり

一、下庄の親類
辰巳笠之介妻下庄より行、重縁
○周匝村金谷氏
○加須山中より今の猶兵衛祖母来
○岡山橋本町武田善次郎

下庄村(都宇郡)難波家と周匝の金谷氏は親戚だと書いてあり、難波家の墓地を調べると、
「難波猶平次栄元後妻、周匝金谷廣右衛門光明娘、安永9生〜天保10歿」
という墓碑がありますから、上記の「後(のちの)金谷廣右衛門」の諱は光明であることがわかります。この様に、古い親族を訪ねれば先祖の貴重な情報が得られることがあります。

光経初妻の墓碑の並びに又兵衛光信夫婦の墓碑があります。
「圓妙院蓮久日栄、安永9年、金谷又兵衛光信」
「圓入院妙寿日清、寛政3年、享年80、金谷又兵衛光信妻」
妻の生存年代から計算すると、安永4年歿廣右衛門の両親はこの2人になると思います。

蓮現寺本堂奥にひときわ目を引く墓碑群があります(下写真)。このうち、天和3年歿の助右衛門、同元年歿の八郎左衛門妻の巨大な墓碑と、中興開基と彫られた義光の墓碑に注目しました。天和3年歿の助右衛門は、助右衛門光與と歿年が一致しています。年を数えると三郎右衛門光長の母が清受院妙遊日閑信女ではないかと思います。季粲という諱の「粲」は光り輝くという意味だそうですから、季粲=季光と解釈できます。



どうやら助右衛門は代々の襲名で、江戸時代の絵図には姓が書けないので「下金屋助右衛門」と書いたのだろうと思います。
又兵衛光信は三郎右衛門信光より10〜15歳年長と思われ、義光とは年の離れた兄になるのかもしれません。何れにしても、天和3年歿の助右衛門と義光の間の2代?くらいはよく判りません。この不明の2代辺りから久米郡久米南町下弓削の大庄屋河原家に忠右衛門という人が養子に行っているようです。上記の墓碑の奥に金谷姓の無縁墓を集めているところがあります。戒名の文字共通性から分家の墓ではないかと思います。どうも上記の不明の2代辺りから分かれたのではないかと思います。

六郎兵衛――六郎兵衛――六郎兵衛家定
元文4   文化5   天保6

この中に、「金屋」という屋号が彫ってある墓碑があります。なお、光信夫婦の墓碑の並びにも「金屋」という墓碑があります。

蓮現寺の墓地を一通り調べた後、江戸時代の周匝町絵図に描かれているところを歩いてみました。
周匝は江戸時代には備前池田家の家老池田氏が陣屋を構えていたところで、その陣屋跡はいま保育所・幼稚園になっています。

吉井町史267〜8頁にある町内域の肝煎・大庄屋役から周匝村について抜粋すると、

1、九郎右衛門 十村肝煎 寛文7閏2
2、市右衛門  肝煎   延宝9
3、常右衛門  肝煎   ?〜元禄2・6
4、九郎右衛門 大庄屋  正徳3・5・16〜享保8・12・25
5、孫次郎   大庄屋  宝暦5・5・9〜?
6、常右衛門  大庄屋  宝暦7・11・26〜安永9・7
7、又兵衛   大庄屋  明和6・10
8、常右衛門  大庄屋  安永9・9・12仮役 寛政11・5・18苗字帯刀免
             天明3・1・26本役〜文政7・2・6 天保6・10・15在方下役人
9、又兵衛   大庄屋  文政7・3・1〜文政12・10・14

解説のために番号を付しました。8は光経、9はその長男の和光と思われます。6の常右衛門、7の又兵衛は光信でしょうか。3の常右衛門も金谷氏らしいですが、よく判りません。


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