國枝家
浅口郡七島村嶋地
瀬良家の消息を訪ねて嶋地を訪れた時、地元の方から
「ここの庄屋は国枝と云って、このもう一つ向こうの山の上に墓があります」
というお話を聞きました。
八島、七島、嶋地、何れも海に浮かんだ小さな島々の集まりから名付けられた地名です。いま、国道二号線を走ると、その高架からその島なみが想像できます。
都窪郡誌に、天和年中の備中郡代として「國枝平助」が挙げられてます。
備中村鑑に、
「池田信濃守様 島地 八ヶ村大庄屋 国枝間三郎」
とあります。なぜか気になり、改めてその山の上の墓地を訪ねてみました。
碑文から整理したのが下記の系図です。
平助正清――多左衛門正清――+――源内 元禄11 宝永2 | 元禄4 室 室 | +――重兵衛房重――段右衛門最春――宗助正義==間三郎公彜==曠八朗 ――+ | 明和5 明和7 文化15 尾藤氏 岡田氏 | | 室 室邨上氏 室竹内氏 明治2 明治17 | | 室伊丹氏 室西山氏 室 | +――女 室中原氏 | 阿部道廣妻 室 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――留以 | 岡道夫妻 | +――芳滋 ==逸蔵 | 明治24 岡氏 | 昭和35 | 室井上氏 | 室加藤氏 | +――サダ 岡敬逸妻
平助正清の墓碑は間三郎公彜によって建て直されたようです。二代から四代までの墓碑は何れも台石二つの上に比較的小さな棹の載った質素なものです。
平助正清は豊後国舂杵藩士、國枝佐左衛門の第三子で、備前芳烈公(池田光政)に招かれて食録四百石で雇用された侍です。備中諸郡の郡代となり、その管内である七島村に住みました。老年になって剃髪して「一友」と号し、跡を多左衛門正清に嗣がせています。六代孫間三郎の努力により、鴨方長川寺主から「実相院」の追号を贈られています。
段右衛門の妻増は、邨上美好の長女で、母は原氏、京都生まれとあります。宗助正義一人を生んでいます。
村上喜内夫婦や村上新左衛門(宝暦十一年、△△院○譽道夏居士)という墓碑があり、増の実家の人ようです。
宗助正義妻千加は、天城池田家家臣竹内源五右衛門次女で、後妻梅は戸川侯國臣伊丹常右衛門尹重の娘です。この碑文を発見した時、この墓地へ引き寄せられた意味が何となく解りました。大福佐藤家の調査で伊丹家は調査済み、私の直系先祖の一人である大村官右衛門房重の日記に伊丹常右衛門尹重のことが記されています。
間三郎は尾藤光重の長男、弱冠菅茶山に師事、大里正を勤めました。妻時は戸川侯國臣西山藤太夫忠政の第三女、これは既に西山家の家譜で確認していました。後妻峯は片島村中原行蔵庸徳の長女、母は橋本氏、二十三才で間三郎に嫁ぎ一男二女を生んでいますが、子は幼くして亡くなりました。
曠八朗(号風堂)は尾道の岡田與三平五男で、妻岸子の婿養子です。夫婦には一男二女があり、長男芳滋が二十四才で早世、芳滋妹サダの長男逸蔵が跡を嗣いでいます。芳滋の姉妹は同じ家の本家分家に嫁いでいます。
他に、小田太兵衛妻千代女(延享五年二十才)、竹端藤兵衛妻とみ女(寛延二年二十七才)という墓碑もありますが、上記の系図にはうまく当てはまりません。村上喜内夫婦(段右衛門夫婦とほぼ同世代)の娘かも知れません。
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