私の家系図調べ その十



幕末浅尾騒動の頃の備中成羽山崎藩記事に、「種田流槍術師範清水助左衛門」という人が出てくるのをみつけました。
これが清水内膳に始まる系図と親類書に出ている清水助左衛門の子孫ではないかと考えました。
時代がずいぶん違いますが、通称は代々伝えられることが多いのです。

備中成羽藩主山崎家のご当主に、
「旧山崎家々臣清水氏の消息に付きご存知ないでしょうか」
と手紙で問い合わせてみました。
まもなく、江戸詰家老として明治を迎えた清水家とそのご子孫正夫氏の連絡先を記した丁寧な手紙を戴きました(註一)。

教えて戴いた清水正夫氏にさっそく手紙を書いてみました。その手紙の一部を転記します。

「山崎様に教えて頂いた清水家、即ち貴方様方と私の捜している清水家が同一かどうかに付いてご調査の上ご連絡いただければ幸いと存じます。また、もし同一の家で山崎主水助義方家臣助左衛門の兄弟弥右衛門の子孫に付いて知ることの出来る何らかの情報がございましたら合わせてご教示いただけないでしょうか。私が直系先祖でもない、この清水家になぜ拘るかと云えば、別紙の郷土資料の写しの通り、我々の直系先祖も江州から出ているからです。」

この手紙に下記のような略系を付けておきました。

清水弥右衛門(宝永三年歿 天譽一鑑居士 行年八十九)
  ‖
  +――――女(貞享三年歿)
  ‖    ‖
谷田氏    +――――――とめ
       ‖      ‖
       神原長十郎  +――――――――利八郎貞ェ
              ‖         ‖
              石原茂一兵衛義芬  ‖
                        +――多利助貞義――茂利治貞本――文太夫貞秀――利太郎貞基(清水改姓)
                        ‖
                        ‖
             間野源太兵衛貞秋――喜與

十日ほど経て返ってきたお便りをみて驚きました。上記略系のコピーに加筆がしてあり、石原茂一兵衛義芬の横に
「備前領原津村」
と付記されていたのです。私の手紙では「西坂の石原家」としか紹介していなかったのですが、岡山の地理をご存知ない清水氏が、原津という小字名まで記されていました。

相手方にかなり詳しい系図があるに違いないと思い、遠祖について、家紋ついて更にお尋ねの手紙を書いてみました。

東京都港区高輪の源昌寺境内墓地にある清水正夫家の墓碑(「丸に剣酢漿草」が確認できる)

遠祖については不明でしたが、家紋は清水家と同じ「丸に剣酢漿草」、姓は「源」というお返事を戴きました。更に、弥右衛門の兄弟姉妹の後裔についてもある程度の情報を記した系図のコピーをご恵送いただきました。

清水家の家紋は「丸に剣酢漿草」で、江戸時代、1700年代の終わり頃に大坂に出た一族(参考)も同じ家紋を使っていますが、間野五三兵衛の子孫及び、現在、地元居住の間野諸家紋は何れも「丸なし剣酢漿草」です。

また、間野五三兵衛家の墓碑の二基(伊太郎慶明と與平克明)には「藤原」姓が入れてありますが、茂利治貞本が遺した先祖記に、

               
文化七庚午年六月 間野茂利治藤原貞本謹書
         藤原ハ黒瀬家之氏也、五三兵衛
         家ハ先祖黒瀬也、清水ハ源氏也、中興混
         乱ニ相成候事

という記録が見られます。斜体文字は茂利治の筆でないことが明らかなので変えています。後の誰かが加筆したようです。
つまり、
「間野五三兵衛家は先祖が黒瀬氏なので藤原ですが、清水家は源姓で、茂利治が間違ったのは中興期の誤解によるものである」
と云っています。

東雲院文書にも同様の記載があります(註二)。
「当村間野五三兵衛先租者元来黒瀬氏にて大乗寺の旦那日蓮宗に候処致改宗当院の旦那に相成候
(間野五三兵衛の先租はもともと黒瀬氏で大乗寺の檀家、日蓮宗であったが改宗して真言宗東雲院の檀家となった)」

なお、間野尚明家の墓碑には、「源」と刻まれた墓碑がいくつかあり、家紋は「笹竜胆」です。笹竜胆は源義経が使った紋と云われ、江戸時代には清和源氏を遠祖と信じる武家がみな使ったそうです。

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註一
:東京麻布にあった山崎家江戸屋敷内の池に住む「大蝦蟇」が大火から屋敷の類焼を救ったことから、火事の多い江戸に住む人たちが、防火のお守札を求めるようになりました。この配布を清水氏が担当していたそうです。いまも「上の字様」と言われて麻布十番稲荷神社から配布されています。このような次第で、清水家は維新後も山崎家と特別な関係が続いていたようです。

註二
:『国立国会図書館デジタルコレクション』、検索欄に『都窪郡誌』と入力、検索結果の『都窪郡誌』をクリック、コマ番号のプルダウン・メニューを441コマに合わせると、829頁4行目に記述されています。


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