私の家系図調べ その十一



出身地が「近江(滋賀県)」、姓が「源」、家紋が「丸に剣酢漿草」と三つ一致しました。
もう一つ、代々の諱に法則的に伝える通字にも共通性があるのではないかと思われる証拠を見つけることができました。

生坂清水家所蔵文書に下写真のようなものがあります。

これは清水彌右衛門が水谷家から解雇された時に支給された退職金の運用について書いたものだと思います。
元禄十三年辰と書いてありますが、これは茂利治貞本の筆ですから、原本ではなくて写しのようです。コピー機のない時代に大事なものを残そうとした先祖の労はありがたいです。 解読書写文を下に記してみました。

     覚

一、銀子三貫七百目程  丸川次郎右衛門へ辰ノ暮算用残預ケ
            但追々増減可在候
    此内壱貫目ハ六郎右衛門ニ源太夫御取次
一、同壱貫目程     中西藤九郎へ預ケ辰ノ暮新年頭
            取可申と存候但右同断
一、同壱貫百目程    石原茂一兵衛に預ケ但右同断
一、同壱貫三百五拾目程 丸川七郎衛門に預ケ右同断
一、同壱貫目程     市右衛門に預ケ但右同断
一、同壱貫目程     松田清右衛門に預ケ但右同断
一、同五百五拾目程   同名助左衛門に預ケ右同断
   合九貫七百目程
      此王計
一銀弐貫目者 娘おつるニ遣可申と存候但我等死後
       之事ニて御座候
一同三貫目者 孫おふきおせうおとめ計三人へ遣
       可申と存候但右同断、但おとめ儀ハ兼ね而茂一兵衛と
       約束之通茂市兵衛殿方へ引請可致候婚礼入用ハ右
               三貫目之外銀ニテ似合敷程ニ頼存候
 引残テ四貫七百目程
右残銀と並諸道具不残此分ハ同名文太夫ニ遣可申と存候
尤我等存命之内右之銀高減少可申と存候左候者右之
割符銀高ニ應シ重而之割符も減少致シ可然候我等老
極之儀にて万一頓病頓死等致候共此書付を以貴殿父子
真安平助石原茂市兵衛伊勢村与兵衛中西藤九郎
右御立合御閑談能様ニ致可然候尤我等長命ニて右之
銀子不残遣候へバ其通にて猶も長命致候者外へ無構其
方物入にて介抱可然旨ハ松山落去以前より兼々我等寿貞
連座にて約束致置候へ者是又安堵ニ存候近年其方
父子世話ニ罷成應々致被下候段度々御礼申通に候弥存命
之内之儀ハ不及申ニ別而ハ我等死後之儀善悪無沙汰
能様ニ頼存候文太夫其外一族共は各主持ニて候故此書
付ニのせ不申候貴殿平助茂市兵衛より宜御傳可然候以上
   元禄拾三年
    辰ノ極月日   清水弥右衛門貞直(花押)(印)
       丸川源太夫殿
       同 次郎右衛門殿

丸川というのは彌右衛門(彦右衛門)家の系図にも出てくる家です。彌右衛門の妹が丸川源太夫に嫁いでいるという記録がありますから、上記「覚」の宛人と関係がありそうです。石原茂一兵衛(茂市兵衛)という名も数ヶ所出てきますから、この文書からも彌右衛門家の系図が石原家に由来するものであることが判ります。

親類書によると、彌右衛門は水谷家退職後備中西阿知村に隠居していますので、西阿知近辺に彌右衛門のお墓が遺っているかも知れないと思いました。車窓を通して時々眺める西阿知はとてもそんな古いお墓を遺している町には見えません、まったく夢のような話でした。ところが、次記のような郷土資料をあたるうちに夢が次第に現実化して、とうとう彌右衛門夫婦とその子文太夫のお墓に巡り会う事が出来ました。

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