私の家系図調べ その十二



「倉敷の干拓(三宅千秋著)」に「成羽藩山崎領になった西阿知村新田の元和開発」という論文があります。その要点を記してみます。

西阿知村新田は、元和三年に成羽藩主山崎甲斐守の領地となり、西阿知の丸川氏が庄屋になっています。当時、新田開発者が庄屋になるのが一般でしたから、同新田の開発者は丸川氏であったに違いありません。
丸川氏の邸宅は極楽寺の東隣にあり累代の墓地もその寺の境内にあります。寺の山門左手にある大きな位牌型墓碑(下写真)は丸川源太夫祖父母の墓と伝えられていて、同寺の過去帳に
本叡性夏 正保四年四月十八日 丸川源太夫祖父
と記されていて、位牌型墓碑銘に一致します。
源太夫も庄屋を勤め、延宝年中の文書にもその働きがうかがえますし、新見藩儒丸川松隠もその後孫です。
西阿知村新田は、後の寛永十六年に成羽藩水谷領となり、その後一時期天領となってから、元禄十年に新見藩領になっています。

倉敷市史に掲載された瀬尾屋藤井家の系図に下記のような系図があります。

五代    六代             母小野
利右衛門――十之兵衛規英    ――+――女 名 初 早世
      ○△自賢        |
                  |  同
      室 庄屋孫太夫女    +――女 名 しつ 早世
      ○△妙唱        |
                  |  同
      後妻 西阿知丸川利慶  +――宗介 早世
      俗名 源太夫女     |                   七代
      ○△恵乗        +――女 銭屋宗右衛門女     ――茂右衛門信賢
      俗名 もむ       |  法名 ○△院妙種
                  |
      妾 とめ 松山より来  |  母丸川
                  +――男子 七夜の内死
      後妻 備後福山町人   |
      用田嘉兵衛女 いよ   +――同
      法名 ○△妙曜     |  権十郎 ○△義休
                  |
                  |  妾腹
                  +――女子 きち 又串内藤忠兵衛に嫁
                  |
                  |  母甲田
                  +――名 紋 笠岡丸山久兵衛嫁大帰
                     他略

何れの資料にも見られる丸川源太夫という名は清水家所蔵の系図や文書に見られますが、時代がややずれているようにも思います。ただ、襲名が普通に行われた時代ですから、まず同じ家の事を記しているに違いないと思いました。しかも、丸川氏の開発ではないかと云われている西阿知新田村の領主、山崎氏も水谷氏も共に清水彌右衛門が仕官していた家です。
さっそく、極楽寺を訪ねてみました。
大きな位牌型墓碑と丸川松隠先生のお墓はすぐに判り、その周辺の墓碑を幾つか調べてみましたが源太夫の墓碑は判りません。ちょうど住職の奥様が居られたので、事情をお話し、後日詳しい資料を添えた手紙を送りしました。

お返事は電話で戴きましたが、実に驚きの内容でした。
「寿貞は寺の過去帳に記録があって、お墓も丸川家の墓地内にありますが、彌右衛門夫婦は過去帳に記載がありませんが、お墓は文太夫のお墓と一緒に岡様の墓地内に建てられています」

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