私の家系図調べ その十三


清水彌右衛門が丸川源太夫に宛てた覚えに
「兼々我等寿貞連座にて」
という記述があったのを思い出しました。寿貞が人の名前とは思いつきませんでした。墓碑に、
松譽壽貞信尼 元禄十年○月**日
とだけ記録されていますが、この人が彌右衛門の妹で丸川源太夫の妻です。

彌右衛門夫婦の墓は、生坂清水家所蔵の石原家過去帳に記載された戒名と歿年月日の一致で確認できました。それにしても住職の奥様はよく見つけられたものだと感心しました。更に、その隣の墓碑が文太夫の墓碑だと仰るのですが、
「高嶽院殿傑信道雅雄居士 宝永六年十月十二日」
と読みとれ、側面になにやら文字らしいものが彫られています。俗名清水文・・・・
良く読めませんでしたので、チョークを塗りつけてデジカメで撮影して帰りました。



帰宅後、繰り返して写真を眺めていてハッと気付きました。
「俗名清水文太夫貞義」
と読めるのです。上写真はそれぞれ左がオリジナル画像、右は色相・彩度を少し変えてみました。画像処理より人間の頭の方が遙かに優れていますから左の画像をじっくり眺めていれば理解できると思います。
「覚」の署名から父の彌右衛門は「貞直」であることが判っていますから、「貞」が共通文字、すなわち通字である可能性が大きく、清水家の通字に一致しています。

こうして、清水家と清水彌右衛門家は、出身地、姓、家紋、諱の通字という四つの共通性が見つかり、彌右衛門家の系図が清水家の系図であるという伝承と併せると、両家の遠祖が同一である可能性が一段と高くなりました。

また、彌右衛門の曾孫利八郎(石原家から清水家の養嗣となった人)からいうと孫になる当主が文太夫貞義と名乗っていますから、石原家から流れてきた系図を、単なる誤解によって、清水家の系図だという伝承が生じたという事もあり得ないと思います。
清水彌右衛門家の系図が石原家から清水家にもたらされる時点で、「清水家の先祖と清水彌右衛門家の先祖が同じ」だということは両家の人が皆よく承知していたのではないでしょうか。

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