私の家系図調べ その十四


間野東明氏とは何度か手紙をやり取りしましたが、ご本人が病気でお返事が奥様から届くようになり、やがて墓標に名前が刻まれているのに気付きました。跡継ぎと云われていたお孫様がずいぶん前に亡くなられ、その後、ご子息も墓標に刻まれているのを見ていますから、跡はどなたが祭祀を引き継がれたのだろうと思いながら、時々、お墓の様子を伺っていました。

墓掃除は、東明氏の甥吉田氏が近いので、ずいぶん前から引き受けておられました。平成三年の秋の彼岸、偶然お墓でお逢いしたことがあり、その後、吉田様とは連絡を取っていましたが、そのうち墓掃除は楠家へ嫁いだ東明氏の娘が引き継がれたとお聞きしていました。

平成二十六年二月、十年ほど前に塩見様から戴いた「崇祖会」系図で最後に残った一枚の検証をはじめました。陶守家です。
高校在学中、陶守君というよく勉強のよく出来る人がいました。同じクラスになったことはありませんが、たまに一緒になる授業があったのか、尊敬する数学の先生が彼の成績を褒められていたせいか、私の頭に彼の名が残っていました。同窓会名簿でその後の消息も或る程度知っていました。
不明系図の末尾にある名と一文字違っているのでずっとやり過ごしていましたが、その時、もしかしたらと思い、系図に書いてある兄と父が同窓会名簿に出ていないかと繰ってみると、その二人が陶守君と同一の住所で載っていたのです。
思い切って、陶守君の実家に電話をしたところ、お母様が出てこられました。事情を説明すると、すぐにお墓の場所を教えて下さいました。ちょうど珍しく雪の降った日でしたが、雪解けを待てず、翌日、長靴を持って出掛けました。岡山市幸西にある山の上です。
墓誌を全て書き写し、系図と対照させて報告書を作成し、いつものように自己紹介の資料と清水家の略系図を付けて陶守君のお母様(Y子様)にお贈りしました。略系図には、株家(分家)の間野の系図を一緒に書き込んでいます。
数日してY子様からお電話があり、
「お宅は清水で、間野とはどういうご関係でしょうか?間野尚明は私の母の父です」
といわれるのでビックリしました。

以前から尚明の子孫についていくらか知っていたのですが、まったくの初耳でした。東明氏も亡くなり、もう新たな情報は得られないだろうと諦めていましたところ、Y子様から東明氏の近親者についてお聞きするうち、東明氏が祀られていた位牌はどこに行ったのだろうと思いました。屋敷ノ内の墓碑配列図を送って、手元にある位牌の墓に丸印を付けて送り返してもらったものがあり、位牌の一つに「剣酢漿草」が入っているという回答が気になったからです。

お墓守を引き継いでいるという楠様は、吉田様から戴いた手掛かりを元に電話帳検索して捜しました。電話したところ、
「間野は絶えました。父(東明)が死去した後に母が仏壇を整理して古い位牌を処分しました。うちに過去帳や系図はあります、貴方が興味があるのでしたら、すきなだけ調べて下さい」と云われます。東明氏から延太郎氏へ宛てた先祖書写と倉敷市史を見ていますから、系図は参考程度と思いましたが、過去帳は位牌にまさる情報が期待できます。

五月の連休、過去帳と系図をお借りしました。過去帳はもちろん、系図も予想以上によく書かれたもので、この四半世紀の間に諸家で拝見した系図の中でも内容の充実したものでした。
これまで考察した清水家と間野家の分岐点が確認できたのはもちろんですが、文治二(1186)年○月○日生まれの清水左近義季から八百年余の流れが判りました。大ざっぱにいうと、前半四百年が清水、三百年が間野、百年が清水です。左近義季は木曽義仲の遺児清水冠者義高と頼朝の娘大姫の子で鎌倉に生まれて熱田大宮司家で保護されて近江佐々木氏に仕えたと書いてあります。十二、三才で頼朝に殺された義高に子がいたとは考えられないので、義仲の末子(季子)か、姉妹の子ではないかと考えています。

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