小川家・笠岡屋
御調郡尾道町
尾道油屋亀山家の系図に小川作右衛門妻、藤左衛門妻という記録があります。新参の亀山家が古参の小川家と縁戚関係を結んだ背景に興味があり、墓碑を調べてみました。
壱岐守――又左衛門――少左衛門――又右衛門――庄左衛門――+――儀右衛門――山三郎 | +――某 ――作右衛門――+ 元文1 | 室 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――作右衛門正治――藤左衛門照光――+――團蔵 宝暦9 安永2 | 安永4 室亀山氏? 室亀山氏? | +==作右衛門恵廸――作右衛門正路――+==作右衛門昌言 野間氏 安政3 | 文政7 文政2 室松本氏 | 葛西氏 室照光娘 | 室葛西氏 +――和太郎正宜 ――又三郎 文久1 明治39 室桑田氏 室野村氏
やはりこの家にも戦国末期のものと思われる花崗岩製の五輪塔が何基かありました。渋谷、葛西両家と並び称される、桃山〜江戸時代にかけての尾道三大豪商の一軒で、江戸時代には町年寄、組頭などの町役人職の他に本陣も勤めていました。小川町という旧町名もこの家に由来するほどの繁盛ぶりで、本通りから米場町までの大構な屋敷でした。
もとは畿内の武家で、壱岐守という人が弘治永禄の頃に毛利家に仕えて尾道に移り住みました。天正十六年と慶長二年には諸国の霊場を二度も巡り、その記念碑が檀那寺に遺っています。
壱岐守の子七郎左衛門は島津又八郎から「又」の文字を賜り又三郎と改名、更に又左衛門と名乗りました。毛利家時代に尾道近辺の代官職を勤め、秀吉が朝鮮征伐の帰路、又左衛門宅に宿泊しています(文禄元年)。この時、又左衛門は神辺宿まで随行して金品を賜り、秀吉に乗馬を献上しています。
「尾道志稿」を亀山士綱が編纂した当時には(文化十三年)、まだ秀吉が休んだ座敷が残り、上々段、上段の張り付けは狩野永徳の絵であったといいます。本門は杉原元恒が居城した千光寺城の城門でした。
この様に繁栄した家でしたが、明治三十九年に七十才で死去した又三郎(十七代)で絶え、いまは歴代の墓碑のみがのこる状態です。
尾道市史に紹介された三代以降は、
三代 少左衛門 尾道町年寄
四代 又右衛門 病気につき無役
五代 庄左衛門 尾道町年寄
六代 儀右衛門 尾道町組頭
七代 山三郎 幼少につき儀右衛門甥彦四郎後見
山三郎五才にて死去 只今彦四郎相続
宝永二年尾道寺社町覚書
となっています。
元文元年に亡くなった「小川氏八代笠岡屋作右衛門」という墓碑がありますから、これが彦四郎に相当すると思われます。妻は明和九年に亡くなっています。彦四郎以前の当主及び配偶者に相当する可能性のある墓碑は、
○**理白信女 元禄七年
**宗繁信士 宝永元年 秋田屋藤左衛門
○**善永信士 延宝六年
○**栄信禅定尼 天和三年
○**侶岳信女 延宝六年
**了悟信士 貞享二年 笠岡屋藤左衛門
○**一貞信士 元禄十二年
**清心信尼 享保十五年
○**浄蓮信士 宝永元年
**生蓮信女 元文四年 広島大坂屋太右衛門
○**慈香禅定尼 元文二年七十才 小川藤左衛門煕光継室愛勝島平三郎成美第六女也
○**浄意禅定門 慶安二年
○**心清禅定尼 寛文十二年
○**宗徳禅定門 寛文三年
などですが同定は難しいようです。八代以降は墓碑に明記されていますので、当主の続柄は誤解の余地はありません。十三代作右衛門正路は十四代昌言の死後、また家政を執ったので十五代もまた正路となっています。
作右衛門正治の妻は延享三年という歿年月日の他に墓碑に何も記されていません。藤左衛門照光の妻は墓碑も不明でが、亀山家の系図を照合すると通称と生存年代がほぼ一致するようですので、この位置に入れてみました。
團蔵は僅か八才で亡くなっていますが十一代を相続しています。作右衛門恵廸は安藝郡中野村の野間氏二男で、照光の娘美登婿養子となっていますが、美登は天明七年に二十六才の若さで死去、芸州瀬戸田の葛西十三郎門和娘を後妻に迎えています。正路の妻直は世羅郡上津田村松本藤左衛門延智女です。藤江山路宗家嘉兵衛之基次女が甲山松本氏へ嫁ぎ、吉本屋忠平重信の跡を嗣いだ吉太郎重春が備後甲山(屋地)松本勘蔵春郷の次男となっています。小川家墓地の奥に備前屋山路の墓所があることから、世羅郡上津田村の松本家と甲山の松本家は同族ではないかと思います。
十四代昌言は葛西太郎右衛門昌彌の五男、十六代作右衛門は後に和太郎正宜と改めています。妻は沼隈郡山南村桑田次郎兵衛遊学の娘です。十七代の妻シカは芸州上瀬野の野村氏となっています。
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