妹尾家
小田郡川面村





備中村鑑に、
七百十七石八斗二升四合二勺  小田郡川面村     妹尾永三郎(新見領)
小田郡誌五八二頁によれば、小田郡西川面村内新見領庄屋は妹尾氏が勤めていることが判ります。天明四年に永左衛門、文久元年に妹尾栄三郎が見えます。

太郎左衛門兼宗――三之丞――永左衛門――+――栄三郎兼寿――+――好右衛門兼輝――栄三郎兼豫――+==寿太郎
安永8      天明1  享和2   |  天保11   |          明治12   |
室        室    室     |  室      |  室小野氏    室木谷氏   |  明治35
                    |         |                 |  室兼豫三女
                    +――女      +――紋蔵             |
                       木谷高廣妻  |  文政六            +――直次郎
                              |                 |  津山家嗣
                              +――後三郎            |
                                 木谷家嗣           +――彌須
                                                   大島家嫁

栄三郎兼豫の墓誌にはいろいろ情報があり、「祖太郎左衛門兼宗六世孫」とありますので、初代が太郎左衛門兼宗のようですが、それより古い墓碑がいくつもあります。
「**良範居士 享保二年 弥七郎兼次」
「**養悟居士 享保二年」
「**了普居士 宝永四年」
などです。更に、銘のない籃塔や小型の五輪塔があり、戦国時代末期まで歴史をさかのぼれる墓地のようです。

栄三郎兼豫の父は好右衛門兼輝といい、兼豫はその長男です。若くして父の跡を嗣いで里正(庄屋)となり、三十年ほど勤めてかなり衆望があったと刻まれています。明治十二年に四十四才で病歿(1879-44=1835)、妻天以は下道郡二万村の木谷要三第四女、十七才で嫁ぎ、明治二十年十月に笠岡で洗礼を受けてクリスチャンになり、同二十三年に四十九才で亡くなっています。夫婦には三男四女がありましたが、第三女天留が婿養子を迎えて家を嗣ぎ、三男直次郎は津山家の養子、四女彌須は大島氏に嫁ぎました。ほかの子は皆幼くして亡くなっています。
少し離れて、寿太郎(明治三十五年死去)と天留(昭和十九年死去)の夫婦墓が建てられています。これは昭和二十九年六月に、甥津山達夫と姪福井和子が建てたものです。


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