田淵家
播磨国赤穂町加里屋
田淵文卿は、赤穂藩医員で、幼少より医業に興味を持ち、16才で大阪の吉益塾に入門、華岡青洲に外科学を学びました。その間、「解体新書」を精読、各地の名医を訪ねて医術を研修しました。文化8年、25才の時に帰郷して開業し、同10年に備前の医師河野氏の娘雪(20才)と結婚しました。蝮による咬傷、塩田工事による外傷、原因不明の病気など、他医では助からない重病者を治療して多くの人命を助けました。また、父と共に藩に願いを出して、獄死人の遺体解剖を行って病気の究明も行いました。文政6年に父の死去の跡を受けて家督80石を嗣いでいます。藩主森忠敬の信任が厚く、在城の時には度々医学の進歩について解説しています。1男3女をもうけて45才で死去したとき、その死を悼んだ葬列は20町(1.6km)余にもなり、城北の春日山興福寺から屋敷まで続きました。遺児弘太郎も吉益塾で勉強しますが、弘化4年に22才の若さで客死しています。家督は文卿の弟文逸、その子雅也と相続しました。雅也は藩内外に勤皇医として知られ、西国の志士にも特別の配慮を受けています。
隆春隆庵――淳節南陽――+――壺隠文卿 ――弘太郎思堅 寛政2 文政6 | 天保2 弘化4 室田氏 室湯浅氏 | 室河野氏 室江見氏 | +――友蘭文逸 ――雅也逸庵――+――淳蔵齋月 ――陽一陽明 | 嘉永3 明治26 | 大正9 昭和49 | 室新開氏 室延原氏 | 室西川氏 室石本氏 | | 室脇坂氏 +――女 齋藤大眠妻 | 室田淵氏 | | +――女 藤田九十九妻 +――幹三大幹 | 延原家嗣 | 昭和15 | 室吉田氏 | +――女 小西家嫁 | +――女 齋藤家嫁 | +――女 石本家嫁
家紋は「立澤潟」、隆庵は初めて赤穂藩医に任じられ、淳節は宝暦11年に尾崎村で生まれたとありますので、出身地は尾崎村のようです。尾崎は御崎に近いので塩田地主の田淵家とはもとが同じなのかも知れません。
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