湛増(たんそ)家
久米北条郡錦織村



紀伊熊野別当湛増の後裔といい、現在の錦織地区の同姓はみな同じ株だそうです。家紋は丸に洲浜です。わたしのウェッブページでは、総社市美袋の田邉家が熊野別当湛増を同じように先祖と云っていますが、田邉家の家紋も丸に洲浜のようです(田邉家から持ち出された什器に同紋が入っている)。



もと「丹澤」と名乗っていたそうで、タンソ→タンサワと訛って、文字を当てていたのではないかと思います。
はじめて、地図を頼りに錦織地区を訪ねたとき、道端で農作業をしていたおばさんをつかまえて、「タンゾウという家がこの辺りにありますか?」とお聞きしたとき、首を傾げられるので、参考資料として携帯した書類に記された文字をお見せしたら、「ああ、タンソウね」と云われました。そのあと、ご子孫の人にお会いしてお聞きしたら、近頃の若い者は「タンソウ」と「ウ」を勝手に付けとると呆れておられました。

この家に興味を持ったのは大村家の系図にその関係が記されているからです。

湛増             丹澤
與三右衛門可直――七郎兵衛――五郎右衛門尉――七郎右衛門正勝――伊兵衛
         永禄14

可直は山名昌豊家臣でしたが、主家滅亡後に帰農しています。正勝は錦織神社の修理に尽力し、伊兵衛は津山森藩の大庄屋を勤めています。

大村家の系図によると、野々口本家で最初に大庄屋を勤めた盛重の長男五郎左衛門が津山森家臣林源四郎の養子になって大坂の陣の時に徳川方として活躍、わけあって実家に戻った後に丹澤家の養子となったとあります(延宝7歿、享年88)。その子惣内が湛増と改姓しています。盛重の孫盛治の娘が湛増伊兵衛の妻となっています。

湛増一族の墓碑のうち、古い時代のものは極一部を除いて石が磨耗したり崩れて判読に耐えません。

本家の最期は次のようになっているそうです。最後の当主三平の墓碑は建てられていません。

松五郎――+==喜一郎――三平
明治12 |  青田氏
     |  室家女
     |
     +――百次郎――泰
        昭和26 平成2

墓地はK氏宅の横にあり、本家の大部分の墓碑はこの家で管理されています。

新八――勇吉――濱五郎――+==清四郎
    文久3 明治27 |  森岡氏
        室秋田氏 |
             +――市五郎 ――政市  ――岩雄
                昭和21  昭和48  昭和37
                室正影氏  室武本氏



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