田中家
英田郡海内村


後藤氏の居城三星城に側近として勤めた田中信濃守の後裔です。
久太夫以降地元に帰農して大庄屋を勤めました。

信濃守――喜四郎――次郎兵衛――長兵衛――久太夫――竹右衛門――長兵衛 ――政幸 ――正忠 ――忠興 ==正興  ――+
          室安東氏                  元禄11  宝暦9  明和4  享和3  井上氏?  |
                                      室    室    室    文化14  |
                                      室              室家女?  |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――忠著  ――周平忠祝――+――貴平
   天保12  明治6   |  明治5
   室     室     |
               +――貫平  ==芳雄
               |  明治27  堀家氏?
               |  室則武氏  明治5
               |        室家女
               |
               +――潤
               |  土居英五郎妻
               |
               +――禮
                  東原以景妻

代々「長兵衛」を襲名しています。上の系図では諱のみを記しています。
郷土資料によると、屋敷があった場所は吉野川を背にした五十一、四十九番地で、道路を隔てて代官屋敷と向かい合っていました(三反屋敷)。
墓地は集落の西はずれにある浄化施設の前にありますが、絶家して祭祀を引き継ぐ人もなく竹笹におおわれています。案内をして下さった方によれば、マムシが出るので暖かいうちは近寄れないとのことでした。
菩提寺は海田にある日蓮宗寿永山本妙寺で、この寺の開基円蔵院は田中信濃守の甥になります。
地租改正に端を発する血税一揆がおきたころ(明治五、六年)に田中家の人が次々に死去しているのが気になります。その対応に追われたことが関係しているように思えて仕方ありません。
貫平(後に半と改名)夫婦に男子がなく、養子に迎えた芳雄が若くして亡くなった後、戸長安東与右衛門仲人により土居村妹尾東一の次男九八郎が入家する話もあったようです。明治二十四年六月に福本から海内に転籍したという記録もあり、一揆の後、しばらく地元に居られなくなったのかも知れません。明治二十九年二月に半の妻かつ(則武氏)が相続し、昭和十年十一月になって津山裁判所により絶家が許可されていますので、おそらく貫平夫婦の間の一人娘が他家に嫁いだあと昭和十年頃に死去したのだろうと想像しています。

児島郡胸上村(玉野市)の井上家の系図によると、亀之助という人が田中家に養子に入っています。相互に生存年代を比較してみると正興がその人に相当するのではないかと思います。


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