三種の神器(八咫の鏡)の謎
寿永4(1185)年3月、長門国壇ノ浦の海戦で平家が滅んだとき、二位の尼に抱かれた幼い安徳天皇は舟から三種の神器と共に海中に身を投じて亡くなられました。この時、たまたまその舟に居合わせた妹尾太郎兼康は安徳天皇を助けようと手をさしのべましたが、掴んだのは天皇が抱えられていた鏡(八咫やたの鏡)で、天皇を助けることは出来なかったそうです。

前年の6月に備前国板倉宿で木曽義仲軍と壮絶に戦って死んだことになっている兼康が、壇ノ浦合戦に登場するのはおかしな話です。しかし、さきの平成天皇即位の前にも宮内庁の調査隊が岡山県の妹尾姓の旧家を調べていたということも聞いていますので、まんざら大嘘でもなさそうです。そこで、この壇ノ浦話に登場するのは、兼康の子(長男宗康以外の)、又は宗康の子(兼康の孫)ではないかと愚考しています。板倉宿の合戦当時、兼康は60歳くらいであったと云われますので、成人した孫が居ても不思議はないと思います。

岡山県英田郡某村居住の農業S氏は家伝の古文書中に家宝が埋められている場所を記した一枚の地図を見つけました。その場所を掘ってみると、一枚の鏡が出てきました。これが同家に口伝されていた八咫の鏡であるという話が、下関の赤間神宮の宮司に届き、その鏡はうちのご神体であるので、返してくれと云うことになりました。返せ、返さないという問答がこじれ、とうとう岡山と山口両県知事が仲介の労をとり、鏡は赤間神宮に落ちついて一件落着となりました。

この文章は、史談いばら 第17号(平成元年5月発行)88頁、倉田清一氏の文章を参考にしました

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