赤松(江木)家
小田郡矢掛村
菊屋江木家譜によると、本姓は村上源氏、家紋は五三桐、二引両。赤松則村入道円心の一族で、乱世の頃、義祐の幼児秀次が備後に逃れようとして、途中、矢掛にとまり、地名を姓として「江木(えぎ)」と名乗ったとあります。元禄の頃には、田渕、中屋、菊屋、鶴屋、元屋、津屋、玉屋、松田屋などの屋号を持つ家々がこの地で栄え、「江木八軒屋」として有名になったそうです。
備中小田郡矢掛町東三成にある瑞雲寺(曹洞宗)の境内墓地には江木姓の立派な墓碑が林立しています(上写真)。境内最古の、墓籍台帳でも確認できる墓碑は、江木長太夫政秀(寛永21年歿)の墓碑です。これは、田渕という屋号の江木家の先祖で、寛永年中に庄屋を勤めたことが古文書から確認できます。
田渕――+――田渕 | +――中屋――+――中屋――+――中屋 | | | | +――玉屋 +――津屋 | | | +――元屋 | | +――菊屋 +――新田屋――+――新田屋 | | +――鶴屋 +――松田屋
というふうに分家が増えたようです。中屋は4代ほど隆盛でしたが、その後勢力が衰え、分家津屋の養蔵が天明の頃に庭瀬藩の代官職(大庄屋のようなもの)に任命されています。庄屋職は代々玉屋が受け継ぎ、後には菊屋多五郎が継ぎますが、多五郎の養子秀桂の代には片山氏に移りました。元屋は脇本陣を勤めたこともあったようですが、江戸後期には、大庄屋職と共に高草家が取って代わったようです。取り敢えず私の興味のある株家だけ紹介します。
赤松 江木 義祐―― 秀次―― 義盈――長太夫政秀―― 秀義――宗右衛門 ――・ ――長左衛門秀敦――+ 文禄4 慶長13 寛永21 元禄10 元禄5 正徳1 延享1 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 赤松 +――十郎右衛門秀治――林蔵秀繁――+――多五郎秀利== 秀桂――+――完爾 ――+――純一 安永4 享和1 | 文化9 竹井氏 | 明治26 | 昭和20 室 室片岡氏 | 慶應2 | 室星島氏 | 室 室中谷氏 | 室松井氏 | | +――女 室茅原氏 +――輝五郎 +――得二郎 茅原美雄妻 | 慶應2 | 分家 | | +――安太郎 +――寿家 | 分家 明治25 | +――知加 | 三宅直綱妻後 | 片山曽平妻 | +――琴 国富貞良妻
十郎右衛門秀治までは妻の実家など不明です。林蔵秀繁の妻岸の墓誌には「字智秀伯兄承秀之娘片岡氏」とあります。後妻は新賀村中谷氏です。多五郎秀利は妻の墓碑が見あたりません。
秀桂毅(字叔遠)は松山藩医竹井秀伯の次男で、頼山陽、佐藤舜齋について勉強した後に庭瀬藩侍医として仕えています。妻小松は浅口郡西阿知村(倉敷市)の松井陽介娘、後妻志計は茅原禎蔵泰雄長女で母は赤松氏です、三男二女を生み、莞爾が家を嗣いでいます。
明治29年頃の菊屋は田畑31町と山林を所有していたそうです。
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得二郎 ――+――太郎 昭和25 | 平成13 室宇山氏 | 室水田氏 | +――二郎 | 大正15 | +――四女子 | | +――玲子 昭和15
完爾の弟安太郎は薬学を勉強し、その子翁一は尾道市で産婦人科医院を開きました。
安太郎 ――+――翁一 ――+――収 大正12 | 平成6 | 平成16 室川手氏 | 室日笠氏 | 室 | | +――繁 +――光 | 大正13 | +――久之 松原家嗣
完爾の弟安太郎は薬学を勉強し、その子翁一は尾道市で産婦人科医院を開きました。
光 ―― 平成23 室木原氏
秀次が現存した人物かどうかの判断は難しいとも云われますが、参考までに赤松円心一族の系譜を記してみます。円心は62代村上天皇の皇子具平(ともひら)親王を祖とする村上源氏14代の後裔と云います。
則村――+――範資――光則――+――満弘 | | +――貞範 +――範次――範久――元久――政資――義村(政則の養子) | +――則祐――義則――+――満祐――教康 | | +――氏範 +――則友 | +――祐之 | +――義雅――性尊――政則==義村――晴政――義祐――則房
則村(円心)は鎌倉幕府追討に貢献し、足利尊氏のもとで、播磨、備前、美作、摂津4カ国の守護職に任じられています。その後、一族は繁栄して室町幕府の重職を担いますが、6代将軍義教の時に、円心の曾孫満祐とその子教康は、将軍から追討軍を差し向けられるのではないかとの疑心暗鬼から、反乱を起こして義教の首をはねてしまいます(嘉吉の乱)。差し向けられた幕府軍によって親子は討たれ、赤松氏は潰滅状態となりましたが、それから17年の後、満祐の末弟義雅の孫左京太夫政則の代に、南朝から三種の神器を奪還した功績によって、お家再興を許されています。しかし、則房は関ヶ原の合戦で石田三成に味方して敗れ、慶長5年9月、赤松家嫡流は断絶となっています。
西三成菊屋赤松家所蔵系図によると、義祐の子孫に七郎兵衛尉則成(秀次)という人があるようです。
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武左衛門秀實――+――女 文久3 | 渡邉氏嫁 室西山氏 | 室 +――千代 | 柴原宗助妻
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