福島家
大庭郡目木村
平成8年12月、突然1通のファックスが入りました。送ってこられたのは福島様という方で、以前から系図調査をきっかけとして文通をしている太田様のご友人でした。太田様から私のことを聞かれて自分も家系を調べてみたいのでアドバイスをお願いできないかというご用件でした。福島様のご先祖は戦国時代に作州勝山に城を構えていた三浦氏とのことでしたが、私はその三浦氏について全くといって良いほど無知だったので、手元の資料やら図書館の蔵書などをあたって調べてみることにしました。
まず、「美作大庄屋大年寄記」に、大庭郡目木村(真庭郡久世町目木)の福島家のことが書かれているのを思いだし、大村家との関連について気にもなっていたので、じっくり読んでみました。
福島様のご先祖は、勝山落城の後、その少し東になる久世町草加部に住んで庄屋・大庄屋などを勤めて明治を迎えられたとのことで、「美作大庄屋大年寄記」にも草加部大庄屋福島家について1項目記述がありました。
どうも草加部と目木の福島家は遠い昔の親族になるらしいことが判りました。
「美作大庄屋大年寄記」の目木福島家の記述に資料を提供されている福島M様を捜し出してお電話でご本人であることを確認し、大村家系図や大村官右衛門の一代記に出てくる目木福島家関係の記述をピックアップして手紙にし、一部は証拠資料ともなる古文書コピーも添付してお送りしてみました。M様は目木福島家についてたいへん詳しく調べて居られたので、私の用件をすぐに理解していただき、さっそく多くの系譜資料を送っていただきました。
電話(電話帳)は人捜しには便利な道具ですが、系図調べのような複雑な用件を伝達するにはたいへん能率の悪い道具です。電話と手紙の得意なところをうまく使い分けることがたいせつです。
私が持っている大村家資料と福島M様がお持ちの資料の記述が一致することが判ったので、ある日、急に思い立って車を走らせました。久世町目木というのは米子道の久世インターを降りたすぐの所です。目的とした大庄屋福島邸はいまは老人ホームと公民館に改造されていますが、壮大な土塀をはじめとする建物の大部分の外観は昔のままです。場所はすぐに判り、付近に車を停めて歩きました。辺りで「目木構(めぎがまえ)」と呼ばれている屋敷の前には大きな椋の木がありました。家系図は英語で「family
tree」と云いますが、欧米の家系図のホームページには必ずといってよいほど生い茂った大きな木のロゴマークが使われています。日本ではなかなかそういう格好の良い木が見つからないのですが、この目木構の前の木は惚れ惚れとするほど素晴らしく成長した大木でした。わたしはこの前でしばし脚を止め、その下で遠い昔にくつろいだであろう自分と共通の遺伝子を持つ人々の生活に思いを寄せました。
福島氏は清和源氏の流れで、中務大輔満隆が奥州鎮撫使に任命され福島郷(いまの福島県?)に住んで福島氏を名乗ったといいます。定紋は三階松、替紋に鬼蔦を用いたと系図にありますが、家紋の起源はこんなに昔になるのかどうかよく判りません。
その孫満政は伊豆国四方郡高田に在城しました。その子満盛は鎌倉幕府北条氏旗下となり、3万8千貫の領地を持っていましたが、北条高時の代に子の満隆と共に伊豆から四国の土佐安喜郡に移住して七条公に仕えました。満隆は讃岐国三豊郡詫間塩生山城に居城して、吉津、二尾、比地、中村、併せて4千石を領有していました。
満隆の孫満久は観応2年足利尊氏の軍に従って功績があり、感状と「丸に二引」の紋をもらっています。これ以後、「丸に二引」を従来の「三階松」に付けて定紋としました。
応安年中、四国が戦乱になりました。満国は塩生山城から伊豫国越智郡金甲山城に移って、その地の凶徒を撃ち人々に歓迎されました。満国の死後、その徳をたたえて城の傍らに祠を建ててお祀りが始まりました。
享徳3年7月、金甲山城は長曽我部元景によって攻められ落城、満国の孫一信は芸州沼田郡を経て、作州高田城主三浦持理を頼って作州勝山に移住しました。
文亀年中、三浦貞連は篠向城の山名右京亮相親を破り、攻め取った城を福島一頼が守ることになりました。
一盛は、大永年中、三浦氏に反旗を翻した鹿田の辻秀政を撃っています。
満則は高田城の攻防戦で雲州尼子勢のために討死しています。
天正4年4月、毛利輝元に攻められて三浦氏が滅亡し、一則は篠向城を出て居宅を目木に構えて宇喜多氏に属しました。
則盛は文禄の役に従軍し、上司の江原親次(宇喜多秀家の娘婿)、牧源之丞(親次の義父)が戦死したので、その遺骨を持ち帰り目木に墓を建ててお祀りしています。ずいぶんと戦功を上げたので、秀吉から感状と松尾丸という太刀を褒美にもらっています。その他、従軍中に高麗犬1対を朝鮮で手に入れ、これを目木の弓矢八幡宮に奉納しています。
盛親は、慶長5年の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗退して帰農します。慶長8年に森忠政が入国すると、大庄屋に任じられています。以後、代々の当主は大庄屋として地方政治に寄与しています。これは森家が松平家に替わってからも続きました。
以上の系譜は、私がこの家の系譜に興味を持つきっかけになった津高郡野々口村の大庄屋大村家の場合と非常によく似ています。系図によると、福島一信が三浦家を頼って作州に来たのは三浦持理との親交があったためと書いてありますが、三浦家も福島家も共に鎌倉武士の流れ、大村家も先祖が梶原氏でやはり同じような経歴の家です。
源 福島 清和天皇――貞純親王――経基――満仲――頼光――頼国――国仲――師光――中務大輔満隆――但馬守経光――太郎光義――上野介満政――伊豆守満盛――+ | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――伊豆守満隆――伊賀守満頼――伊豆守満久――伊豆守満国――伊豆守満時――伊織介一信――+――女 | 三浦貞敏妻 | +――玄蕃允一頼――+==玄蕃一盛 ――+ | | 三浦氏 | | | 大永6 | | | 室三浦氏 | +――満家 | | | +――女 | | 金田弘久妻 | +――満尊 | | | | | +――女 | 近藤良恭室 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――女 | 三浦帯刀妻 | +――七右衛門満則――+――女 天文17 | 三浦貞盛妻 | +――玄蕃一則――+――六郎右衛門則次 天正12 | 三浦兼家妻 室牧氏 | +――七左衛門則盛――+――三郎右衛門盛親――+――六郎右衛門盛秀――+――女 | 慶長4 | 寛永12 | 寛文1 | 三浦兼家妻 | 室牧氏 | 室福島氏 | 室牧氏 | | | | +――女 +――八右衛門盛光 +――女 +――嘉兵衛盛信 | 奥田忠兵衛妻 | 福島藤蔵妻 | 目木上連分家 | | | +――六郎右衛門正則――+ +――女 +――七左衛門正盛 | 宝永5 | 奥田六左衛門妻 | 古見分家 | 室金田氏 | | | | +――弥五録正豊 +――女 | | 大庭分家 牧正吉妻 | | | +――四郎左衛門正勝 | 同村分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――平左衛門正行 ――+――波満 | 貞享4 | 貞享5 | 室金田氏 | | 室三浦氏 +――是平正朝 | | 貞享4 +――長左衛門正信 | | 樫村皆原分家 +――女 | | 福井甚兵衛妻 +――三郎右衛門家親 | | 原分家 +――善兵衛正尾 ――+――女 | | 享保20 | 杉山太郎右衛門妻 +――女 | 室 | 福島弥五兵衛妻 | 室赤堀氏 +――正道 | | 明和5 +――善六郎正清 | 室宮川氏 | 早世 | | +――喜内正治 ――+――六郎右衛門正致――+――六郎右衛門正恒――+――八之進正明 +――孫三郎正房 | 明和3 | 寛政12 | 文政9 | 天明4 | 宝永1 | 室正光娘 | 室大村氏 | 室小杉氏 | | | | | 室牧氏 +==善兵衛正敏――+ +――甚三郎正光 +――藤十郎正秀 +――女 | | 植木氏 | | 井堤上分家 | 皆原分家 | 福島正定妻 +――女 | 安政5 | | | | | 福島正光妻 | 室正恒娘 | +――庄六郎正成 +――藤太正輝 +――牛之助正光 | | | | 元文5 | 牧家嗣 宝暦12 +――茂作克忠 +――是介 | | | | 井堤上嗣 | 早世 | +――女 +――女? | | | | 村山藤八郎妻 石井信秀妻 +――三郎兵衛維則 +――女 | | 福島忠信跡嗣 福島維孝妻 | +――平左衛門正忠 | | 宝暦12 | | | +――女 | 福島忠左衛門妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==友治郎 | 景山氏 | 文政4 | 室正敏長女 | +==惣右衛門正文――+――丈助 井堤上茂作孫 | 文政5 安政6 | 室正敏二女 +――信二郎正安――+――計以 | 明治12 | 大村盛正妻 | 室牧氏 | | 室沖氏 +――奈加 | | 福島弘裕妻 +――敏行 | | 牧家嗣 +――藤一郎克正――――+――正美 ――武子 | | 明治36 | 昭和12 大正11 +――良助 | 室花園氏 | 室牧氏 天保14 | | +――正勝 +――花代 | 本多家嗣 | 福島寛治妻 | | +――志希1864 +――照子 | 坂野正道妻 明治25 | +――登志 | 福島豪妻 | +――勢以 | | +――秀正
信二郎正安は金屋の堰(用水路)を造っています。明治3年、藩から銀札100貫匁の補助を受けて工事に着手、新たに30余町の田が出来上がりました。正安は後に大庭郡長に任じられています。領主からも民衆からもこれほど信望の厚かった名門福島家も正安の孫正美の1人娘が若くして亡くなったのを最後に絶家してしまいました。墓地は旧邸の前にありますが、いまでは祀る人もなく木々に覆われて墓碑の存在すら判らない状態です。
正致の次男茂作は正致の大叔父が同村内に分家した井堤上(いでうえ)を嗣いでいます。茂作は克忠と名乗り、池ヶ原村岡伊八郎、広戸村竹内弥兵衛、三海田村小坂田善兵衛らと共に、作州の幕府領228ヶ村を代表して、寛政10年5月、江戸城門前で松平伊豆守の駕籠に農民の窮状を直訴しています。
森家の改易の後、これら作州の228ヶ村は一時幕府の直轄領になっていました。税金の3分の2は米で納め、残りは津山松平藩内の米価を基準にした銀納と決められていました。ところが、津山藩で藩米の放出を控えたことに始まる米価の高騰によって、228ヶ村の税金が一挙に高くなり、百姓一揆も起きかねないような事態になりました。
そこで、上記の代表を選んで死を覚悟の直訴に及んだわけです。直訴の前に中山村国広利右衛門を加えた計5名で嘆願書を出していますが、このために利右衛門は投獄され、残り4名は即刻帰国を命じられていました。4名はこの命を無視して直訴に及んだわけです。4人は久世の名代官として知られる早川八郎左衛門の力添えもあり、無罪、訴えも認められて、歴史的には稀な直訴成功を勝ち取りました。
代官には2種類あるようです。幕府直轄領には江戸から幕府の命を受けた人が任じられて来ていたようで、諸藩の飛び地には在村の庄屋から有力なものがこれに任命されていたようです。この寛政直訴の舞台となった作州の村々には、諸藩の飛び地ならばそれぞれ代官に任じられても良いような在村の有力土豪(大庄屋)が既に居たので、頭の良い早川代官も目木福島家をうまく利用していたのではないかと思います。
この228ヶ村は、文化年間に至り、津山松平家の10万石加増に伴って津山藩領に組み込まれました。
甚三郎正光――+――以和 享保16 | 正治妻 室日野氏 | +――女 | 福島正春妻 | +――喜三右衛門郷敬――+==茂作克忠――+――幸 | 明和4 | 正致次男 | 大林氏妻離縁 | 室奥氏 | 文化14 | 小瀬逸作妻 | | 室郷敬娘 | +――甚助 | +==義之 | 宝暦4 +――里久 | 中西氏離縁 | 牧知矩妻 | 室幸 +――登免 | 寛政2 +――直 | 杉山六兵衛妻 | +==彦左衛門令則――+――俊 維則次子 | 横山寛太郎妻 慶應4 | 室幸娘 +――寿美 | 杉山慎次郎妻 | +――園 | 福島亦右衛門妻 | +――仲太郎正徳 ――+――猪十郎弘裕 ――+――歌 | 嘉永2 | 明治42 | | 室伊庭氏 | 室正安次女 | | | +――律 +――加津 +――嘉代 | 鈴木賤夫妻 | 森田謙蔵妻 | 福島健之丞妻 | | | +――寛治 +――由己 +――葉留 | 明治33 分家中井 杉山氏 | 室克正長女 文久2 | +――種子 | 角谷格次郎妻 | +==雄 ――+ 遠藤氏 | 昭和24 | 室景山氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――見一 | 明治43 | +==毅 ――+――幸子 山崎氏 | 祝前孝義妻 | 室雄娘 +==K ――+――男 石井氏 | 室毅娘 | +――女
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