福武家
賀陽郡三須村
岡山市日近福武新介智忠の弟藤三兵衛(後改四郎太郎明忠)は、新介死後嫡男久兵衛が幼少であったため後見となりました。その後、久兵衛が十八歳に生長した時、西三須へ移住、分家を立てました。
この子孫は備中浅尾藩の代官を勤めています。代々の墓は総社市三須延の明光寺にあり、その後何軒かの株家に分かれたようです。
横谷分家 四郎太郎明忠――與兵衛――庄兵衛 ――+――三郎兵衛元信 天正11 室渡邉氏 | +――次郎兵衛元吉 | 三須村中分家 | +――勝兵衛吉重――+――平右衛門重常――庄兵衛春重――・・・――恵三郎 ――+ | 宝永3 | 享保8 宝暦3 昭和17 | | 室近藤氏 | 室蜂谷氏 室福武氏 室中出氏 | | | | +――又左衛門 +――弥総兵衛久重 | | 玉島分家 | +――新助 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――義雄 | 昭和44 | 室稲荷氏 | +――正躬 昭和59 室山本氏
吉重妻は備前岡山近藤氏、重常妻は備中松山蜂谷氏、春重妻は浅口郡玉嶋村福武氏となっています。
諱の通字「義」に注目して義和、義種と並べると、これがどうやら元吉の跡ではないかと思われます。他に、幸左衛門義富、義行、治郎兵衛義比、序七郎義生などがありますが、義衛に続きそうな人が見あたりません。
次郎兵衛元吉――源太兵衛義和――重郎右衛門義種――+――五郎左衛門義衛 宝永7 元文5 明和7 | 明和6 室犬飼氏 室板野氏 | 室赤木氏 室萱谷氏 | +――亀 萱谷正真妻
重郎右衛門義種の後妻萱谷氏は玉島の西国屋のようです。萱谷半十郎正真継室が三須福武十郎右衛門女となっています。
幸左衛門義富は母が西郡風早氏、妻が宮内藤井氏で、生一男三女とあります。義行と刻まれた墓碑が見つかりませんが、妻若林氏(備前岡山若林正武之次女諱貞明和九年生寛政三年歿)と伊原氏(享和元年歿)の墓碑がありました。義比の妻は堀氏となっています。
他に、「初称福武啓左衛門義煕後有故復旧姓改児玉彦太郎元業」と「児玉」へ改姓した家があり、年代を合わせると、義衛の跡に一人おいて啓左衛門義煕=児玉彦太郎元業に続くのかも知れません。
福武改児玉 彦太郎元業――+――登九郎元伴 天保4 | 天保10 室土屋氏 | 室土屋氏 | +――太美 | 小川周重妻 | +==健治一正 ――+==千賀之進良直――琢二 肥地谷氏 | 宮本氏 昭和8 明治9 | 明治37 室元伴妹 | 室一正嫡女 | 室太田氏 | +――小美世 福武為重妻
元伴妻八重は小田郡里山田の土屋泰助娘ですから、義煕妻土屋氏も同じ家かも知れません。健治一正は鴨方侯の侍医肥地谷孝順の子で、元伴妹の婿養子となって嗣いでいます。千賀之進は浅口郡金光町字占見の宮本新四郎長男です。一正嫡女小千世の婿養子ですが、小千世が早世したので岡山藩士太田勝太郎次女縫を後妻に迎えています。小美世は一正の二女で研作為重に嫁いだとありますが、為重の墓碑が見つかりません。
他に、下記の「菅」姓墓碑が見つかりましたが、どのような関係になるのか不明です。
○療妙院傳外達良居士 宝暦四年備中足守之産菅順庵
○尋源道遊居士 寛政四年六十七才菅寿伯重春
○文車重清居士 文化九年 菅全六重清
法雲自覚大姉 弘化三年
「秋月院妙照信女 天明元年九月廿六日 倉敷坂口屋岡文兵衛延年妻」
という墓碑があります。岡家の墓誌に、
「延年後室滝 三須村福武氏 安永六(1777)年来嫁天明元(1781)年歿年廿三 秋月院妙照日周」
とあり、嫁いでまもなく亡くなった娘を憐れんで実家に墓碑を建てたようですが父母は不明です。
ホームページへ