難波家
窪屋郡福島村
倉敷市史に掲載された先祖書によると、先祖四郎直郷は楠氏の一族で平姓、戦国大名大内家に仕えて周防国田辺庄に住んでいたようです。直郷の孫直祐は厳島の合戦の後に、窪屋郡の福山城を頼って備中に来たようです。備中では、まず窪屋郡福島村(倉敷市福島)に居宅を構え、福島の熊野神社や妙見宮を勧請したと云います。福島の共同墓地に、
「本染妙理尼、享保八年歿、三宅氏利世」
という墓碑も確認がありますが、これについてはこちらで詳しく述べています。
直祐の孫直永は永禄5(1562)年に大島山(倉敷市大島)の西麓で生まれ、成長の後にこの一帯の開発を行ったそうです。ここは西荘、後に平田村と呼ばれるようになりました。現在の倉敷市平田には貝原、羽田という姓が多いですが、この両家の先祖は難波家と共に周防国からやってきた家来だそうです。
この平田一帯を含む旧高梁川以東は、天正十三年に宇喜多家の家老岡豊前守と千原九右衛門勝則の開発と云われて、文禄三年に宇喜多秀家は西荘の内、三十石ずつを備前国一宮(吉備津彦神社)と千手山弘文寺に寄進しています。直永は慶長十一年に45歳で死去していますから、ちょうど二十四歳の頃に千原氏配下として新田開発事業に携わったものと思います。
孫四郎直郷――源助直景――源兵衛直祐――三郎左衛門直定――+――源左衛門直永――+ 永禄中 慶長18 | 寛永11 | | | | | +――仁兵衛直英 | 直英 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――加右衛門直知==加右衛門忠直――+――太郎 | 寛文7 延宝7 | 明暦3 | | | +――彌右衛門直房――半左衛門直胤――伊助真澄 | | 貞享3 享保10 寛延3 | | 室三宅氏? | | | +――加右衛門直治――加右衛門直広 | +――清三郎直明――忠直 | 元和6 直知の跡嗣 | +――清兵衛直教 分家
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