播磨屋原田家
窪屋郡倉敷村



この家は庄屋紀国屋小野家の一族と言われます。

民部太夫正宜――源右衛門――+――源右衛門――+――源助――――幸右衛門運直――+――八郎右衛門――+
元和1     万治3   |  寛文11  |  元禄13  享保4     |  享保5    |
        室小野氏  |  室銭屋岡氏 |  室小野氏  室藤木氏    |  室大島氏   |
              |        |        室内藤氏    |         |
              +――孫太夫   +――女             +==集右衛門   |
              |  小野家嗣     塩屋大島家嫁           和泉屋岡氏  |
              |                            室運直娘   |
              +――女                                |
                 丸川利慶妻                            |
                                                  |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==幸右衛門==安右衛門――+――孫太夫
   正倶    季昵    |  小野家嗣  
   小野氏   安永8   |
   宝暦3   室正倶娘  +――女 菅家嫁
               |
               +――女 真安家嫁
               |
               +==善蔵顕光――寛五郎
                  小野氏   天保11
                  文化4
                  室尾道嶋屋

正徳元年の宗門帳には、

高64石9斗4升2合7夕
幸右衛門    43歳  浄土真宗教善寺 印
男子 太郎右衛門22歳
 女房     19歳 当村茂左衛門娘4年以前縁付
女子きん    19歳
孫ふき      2歳
(中略)
人数合11人内 男5人
        女6人   幸右衛門 印(運直)

当主幸右衛門運直の長男太郎右衛門の妻は、大島屋大島茂左衛門(次郎右衛門季雅)の娘「ちま」です。大島屋の宗門帳には名前が記されていますが、ここではただの「女房」です。太郎右衛門は若くして亡くなり、「ちま」は復籍して、小田郡小田村の真安儀兵衛に嫁いでいます。太郎右衛門の妹吟(ぎん=きん)は、太郎右衛門の死後、和泉屋岡家から集右衛門という養子を迎えて相続しますが、吟も若くして亡くなり、集右衛門は復籍後分家を立てています。その後は、親族の庄屋小野家から迎えられた養子三吉(正倶)が嗣ぎ、太郎右衛門の娘「ふき」に小野家から迎えられた婿養子季昵にバトンタッチされています。こうして何とか血脈が続いているようですが、季昵の孫寛五郎の代で系譜がぷっつりと切れています。寛五郎は広島で亡くなったそうですから、この頃には没落して他郷に出てしまったのかも知れません。ちなみに季昵の頃の財産は14石、酒造株10石という状態でした。季昵は医者の雲臥と一緒に義麦の制度を提唱して名を残しています。季昵の末娘は小田郡小田村の真安家に嫁ぎ、1男1女を連れて実家に戻っています。その男子は福山の銀山屋の養子、女子は児島郡天城村の小倉四郎右衛門に嫁いでいます。


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