平井家
御野郡岡山石関町



この家について関心を持ったのは、岡山市尾上則武家の系図で、與四郎勝善の三妻が「岡山石関町山田屋平井清左衛門貞尚娘」となっているのを知り、更に、倉敷市藤戸町天城の中島家の系図で、富次郎栄武の娘順(於すみ、お政)が「鴨方三宅常吉直久養子常太郎嫁離縁後、岡山山田屋平井清左衛門嫁(嘉永三年?)離縁」となっていることを知ったのに始まります。
則武勝善の孫婦喜が間野文太夫貞秀に嫁ぎ、中島栄武と間野貞秀は従兄弟になります。



石関町山田屋は、邑久郡山田荘に住む平井三郎兵衛實信の四男吉右衛門が石関町に分家した家です。兄五左衛門實氏、弟三郎兵衛と共に岡山上之町に出ましたが、三郎兵衛はそこで早世、兄は富田町へ出て山田屋を名乗りました。兄弟とも出身地の地名を屋号にしたわけです。

三兄弟の母は富山修理の娘ですが、教實の先妻が富山修理弟九兵衛の娘ですので、九兵衛夫婦は三兄弟の養父母として石関町で暮らしたようです。九兵衛夫婦の墓碑は石関町山田屋の墓地内にあり、
信○院宗受 寛永七年歿
○達院法信 寛文五年歿
となっています。

系図によれば、この法信は朝鮮の女官で、秀吉の朝鮮出兵の時に同行した大名によって拉致され、日本へ着いた時に諸士へ与えられたた一人でした。たいへんな美人であったそうです。夫婦の墓には教實の先妻も合祀されています。
教實は後妻との間にも子どもに恵まれなかったので、妹が嫁いだ森勘右衛門の子長右衛門政武を跡嗣としました。その妻は五左衛門實氏の娘ですから、甥と姪が一緒に跡を継いだことになります。
政武は妻平井氏が死去した後に新福村原田家から後妻を迎えています。先妻と後妻の間に一人ずつ娘をもうけ、先妻の甥になる清左衛門秀氏を富田町山田屋から養嗣に迎えています。秀氏の妻は邑久郡福岡村(邑久郡長船町福岡)の株家又六郎祐行の娘です。

吉右衛門教實==長右衛門政武==清左衛門秀氏――+――清左衛門貞尚――+――喜世
元禄13    氏      平井氏     |  天明7     |  則武保周妻
室       宝永7     元文5     |  室近藤氏    |
室       室平井氏    室平井氏    |  室久山氏    +――徳
        室原田氏            |  室加藤氏    |  平井景道妻
                        |          |
                        +――惣十郎     +――清左衛門定恒――+――清左衛門直純――+
                        |  平井家嗣    |  寛政7     |  嘉永2     |
                        |          |  室小野氏    |  室平井氏    |
                        +――萬三郎英貞   |          |  室平井氏    |
                        |  寛延3     +――仲       |          |
                        |             天野親続妻   +――岱       |
                        +――平太夫豊長      後則武勝善妻  |  平井家嗣    |
                           分家                 |          |
                                              +――時       |
                                              |  三宅高甫妻   |
                                              |          |
                                              +――八重      |
                                              |  平井清作妻   |
                                              |          |
                                              +――陽三郎芳昶   |
                                                 分家      |
                                                         |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――清左衛門直肥――+――卓衛敬  ――+――好太郎純雄
|  文久2     |  明治11   |  明治32
|  室小野氏    |  室大森氏   |   
|  室中島氏    |         +――都
|          +――千代     |  明治12
+――萩野         浅野長博妻  |
|  天野延保妻             +――雅
|                    |  若林禎爾妻
+――葉恵                |
|  平井幾三郎妻            +――杢
|                    |  若林禎爾妻
+――助三郎               |
   伊達家嗣              +――晴四郎義
                        明治24

尾上則武氏との縁戚関係は、その分家になる富田町尾上屋に貞尚長女が嫁いだことに始まるようです。同じ町内の山田屋と尾上屋が親戚になり、石関町山田屋から親戚の児島町茶屋天野家に嫁ぐも夫の早世で実家に戻っていた季女が姉の親戚の本家に後妻で入る、という複雑な縁戚の糸が張り巡らされるようになります。
それから窪屋郡沖村(倉敷市)の小野家、上道郡中井村(岡山市)の大森家などを巻き込みながら更に複雑な重縁関係が組み上がって行きます。

天野延保妻萩野の墓誌には
「平井直純君三女嫁天野氏明治九年歿年六十一」
とあり、天野延保は、小野正路三男で天野家を嗣いだ延澄の子ですから、清左衛門直純とは従兄弟になります。つまり、萩野は父の従弟に嫁いでいるわけです。

中島富次郎栄武の娘順が嫁いだ清左衛門は七代直肥であることが判りました。直肥の墓誌に
「配小野氏生一男一女先君逝(妻は小野氏、一男一女を生んで夫より先に亡くなった)」
とあり、隣に
「速持院妙身、天保九年直肥妻」
という墓が建っています。法名に付く「速」という文字は早世した人によく用いられています。
過去帳に、
「天保十四年九月八日天城中嶋富次郎娘お寿美清左衛門後妻娶る
 嘉永三年庚戌八月不勝手に付離別致す」
という記事が見つかりました。

爪崎浅野家の墓地に「真如妙朗大姉明治三十四年六十七才千代岡山石関町平井直肥女」という墓があり、直肥妻小野氏は亡くなる四年度ほど前に女子を生んでいるようです。直肥の祖母が窪屋郡沖村の小野正路の娘、正路の跡を継いだ美門三女里が平井氏へ嫁いだという記録がありますから(美門墓誌)、直肥の妻は小野美門三女里に違いありません。そうすると、直肥先妻も後妻も共に窪屋郡生坂村西坂石原家の血脈を引いていることになります。

直肥の末弟助三郎は、
「弘化三年 舩着町丸屋伊達休右衛門養子と成同家隣へ別家す」
となっています。
この伊達家は太田家と重縁になる家です。

豊長から後は次のようになります(上山田屋)。

平太夫豊長――清介積 ――+――清作琢   ――+――乃歩
寛政6    文化6   |  明治6     |  大森保定妻
天野氏   室小橋氏  |  室平井氏    |
小野氏         |          +――幾三郎惟廉
             +――茂登         嘉永2
             |  平井直純妻      室平井氏
             |
             +――菊
             |  文化5
             |
             +――登世
                福岡政直妻
                後平井直純妻

豊長の後妻小野氏は浅口郡舟尾村の中屋小野氏でしょうか。先妻後妻いずれも豊長に先んじて死去しています。二代積の妻は備前市香登本村から岡山城下に出た小橋氏でしょうか。

定恒の末子陽三郎は、文政元年に分家して東山田屋を立てています。
陽三郎の墓誌に「火葬於干石井山」とあります。当時は土葬が一般でしたが、平井家の様に居住地と墓地がかなり離れているときには火葬も行われていたのかも知れません。

陽三郎芳昶――+――美登
文久2    |  小野帰一妻
天野氏   |
       +――陽吉盛昶

「間口を拡げる」という言葉通り、山田屋の資産が増えるに連れて隣家や近所の店を次々に買い取っています。最初の店がどのくらいの大きさだったのか記載がないのが残念ですが、その大きくなった店舗はかなりなものとなっています。
その拡がった間口の前に次々に捨て子が置かれています。その捨て子は届出をして暫く養育した後に、近郷の子どもが欲しい家に送り出すということを続けています。江戸時代の社会福祉制度の一端が見えます。


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