平田家
阿賀郡新見村





「西阿知町史」掲載の丸川氏略系によると、松隠次女芳は養子茂直を迎えて分家し、後に離縁して久良と改名若原龍達と再婚しています。芳の妹久良の婿が龍達と読める系図もありますが、松隠の墓誌には「妻平田氏との間に男女各二人の子があった」と刻まれています。娘は宮崎勝豊に嫁いだ長女玖賀と次女芳となると、久良という妹は実在しないことになります。「西阿知町史」掲載の丸川氏略系によると、茂直のあとは、

松隠――+――芳
    |  ‖
    |  +――茂徳  ――仙二郎  ――敬造(仙二郎養子)
    |  ‖
    |  茂直
    |
    +――久良
       ‖
       +
       ‖
       龍達

茂直の墓碑は、西阿知極楽寺丸川氏代々の墓碑群から少し離れていますが(上写真左)、
「龍津小原先生墓 弘化五年歿 名茂直字良達 新見家中若原歓翁次男(極楽寺の過去帳に**院*譽勇徹居士)」
とあります。従って、茂直=龍達ではないかと思われます。龍達と良達は共に「リョウタツ」と読めるからです。

倉敷市史第九冊690頁の丸川松隠略年に、芳は文政五(1822)年に原太という男子を生み、これが後の平田豪谷であると付記されています。渡邉氏のサイトに、
「平田豪谷(ひらた・ごうこく)1822-1872 儒学者 名は源太郎 父は竹原終吉、母は漢学者丸川松隠の娘。新見・平田家を継ぐ。新見藩主に仕え80石。私塾済生館を開く。下津井の人」
という解説があります。竹原終吉は、倉敷市史の丸川松隠略年にも書いてあります。
茂直=龍達=(下津井)竹原終吉=(新見家中)若原歓翁次男
となると、竹原=若原、新見藩士若原歓翁次男終吉が竹原と名乗って下津井に住んだことがあったと理解できます。
その子、源太郎(豪谷)は平田姓を名乗っています。
新見雲居寺にある丸川家墓地のすぐ上に平田家墓地があり、豪谷母、豪谷夫妻と丸川恬齋茂善の墓碑が並んでいます(上写真右)。これは松隠妻の実家ではないでしょうか。すぐ近くに松隠曾孫美登が嫁いだ南條家の墓地もあります。
「豪谷先生之母丸川氏明治十一(1878)年病歿順粛」
「豪谷先生之室丸川氏明治十三年病歿貞敬」
順粛は芳(=久良)ではないかと思います。貞敬はその法名から義三茂義の妹敬ではないでしょうか。
豪谷と茂徳は別人でしょうか?豪谷母と妻の墓碑裏面に「明治三十七年二月丸川仙二郎妻直子建焉」とありますから、墓碑の並びは上記の系図をたどっている可能性が高い、即ち茂徳=豪谷と思います。

新見市史によると、
「平田豪谷 名は源太郎 通称有無。児島下津井竹原家に生まれる。母は丸川松隠の女である。新見平田家を嗣ぎ安政年中関家へ召し抱えられる。私塾済世館を開く。明治五年歿享年五十一才」
「平田寛三 豪谷の男 父の跡を受け私塾済世館を継ぐ、小学校教育の普及に努める後岡山県属官。明治三十七年病歿享年五十七」
豪谷後孫の一人江口**氏から、
「倉敷北大橋三代淳蔵妻は新見藩士平田寛三娘里(慧)、更に、寛三(有無長男、明治十一年相続、弘化四(1847)年生明治三十七年三月十七日(旧暦二月一日)死去」
という情報を戴きました。
豪谷母と妻の墓碑が建てられたのが寛三の死去した時にほぼ一致していますから、寛三が仙二郎と同一人物と考えられます。ただ、戸籍には寛三妻は智恵(安政元年生)となっています。

丸川    平田
茂直  ――源太郎豪谷――寛三  ――+――慧
弘化2   明治5    明治37  |  大橋淳蔵妻
若原氏   室丸川氏   室緒形氏  |
丸川氏               +――太代
                   |  黒瀬喜太治養女離縁
                   |  松井鎗次郎妻
                   |
                   +==敬造

上記の系図は仙二郎=寛三、智恵=直子と仮定して書いています。恬齋茂善が寛三のことでしょうか?


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