猪木家
浅口郡乙島村
義行の墓誌に、
「先祖新左衛門義勝は天正年中に備中小田郡猿掛城将荘元祐配下の武将で落城後に乙島村に帰農した」
とあります。
同じ玉島勇崎の中塚一族も猿掛城に拠った戦国武将としての経歴がありますので、玉島まで猿掛の勢力圏内であったことが判ります。
また、乙島中山地区には猪木姓が集まっていますので、もともとこの付近を領有していた小豪族の猪木氏が本領安堵をはかって猿掛城を頼ったのかも知れません。玉島勇崎の中塚一族も同様です。
分家 久右衛門――徳右衛門義廣――與五兵衛義直――+――與五兵衛義行 ――+==士郎正廉 寛政12 文化3 萬延1 | 明治1 | 渡邉氏 室平野氏 室浅野氏 | 室森上氏 | 分家 | | 室義行長女 +――與平 | | 分家 +――雄一郎義治――+――土彦 | 大正6 | 大正11 +――伊乃 室江田氏 | 室 | 大江傳左衛門妻 | | +――利 +――友 | 杉山新九郎妻 | 物部家嫁 | | +――五三 +――又兵衛義基? 明治45 慶應2
義行の墓誌には、祖父義廣、父義直の二代に渡って與五兵衛を名乗ったとありますが、與五兵衛義廣と彫られた墓碑は見当たらず、替わりに徳右衛門とその妻(浅口郡新庄村平埜源左衛門娘)の墓碑が義直の上手に建てられているので、徳右衛門=與五兵衛義廣と理解しました。義直妻は下道郡有井村の浅野氏です。義直には三男五女あり、義行はその次子です。
「玉島人物志」によると、義行の弟に又兵衛義基という人がいると書かれています。ところが義基の墓碑には「慶応二年歿年二十」とあり、義直七十一才の時の子になり、しかも母は中野氏となっています。
義基は剣を中原武久に、学問を鎌田玄渓について学びました。大坂の陣で活躍した後藤又兵衛義基の勇烈を慕って、自ら又兵衛と称したそうです。慶應2年、浅尾騒動を鎮圧する官軍に加わって戦死しています。墓表に「節士猪木義基之墓」、法名は「玉真静仁清信士」と碑文中に記されています。
雄一郎は地方実業家として活躍し、明治十三年には高梁川河口を干拓しています(猪木新開)。この妻が江田槌太郎長女です。
土彦は東京帝国大学を卒業し逓信省鉄道局に勤めました。鉄道国有化政策に尽力して、後に鉄道院参事・理事を勤めています。
義行夫婦には一女一男があり、長女伊登に川上郡下原村渡邉彦兵衛正方第三子士郎正廉を婿養子に迎えて分家させています。
士郎は乙島村の里正を勤め、教育、産業を振興させました。国学にも造詣が深かったそうで、墓標に「猪木厳正傳彦之命」とあり、子孫は神道祭です。
士郎正廉 ――+――禮太郎 ――公也 渡邉氏 | 大正11 昭和46 大正2 | 室 室 室義行長女 | +――弟彦 | +――男 | +――正 | 坂田桂作妻 | +――金兄 中村俊清妻
弟彦は東京帝国大学工科大学機械科を卒業、川崎造船所に入り、累進して造機工作部長となりました。タービン機関研究のためイギリスに渡航し、戦艦榛名(はるな)に日本で初のタービン機関を据え付けました。他にも、猪木式といわれる船艦用品を多数発明し、艦艇建造に貢献しました。
墓地に「阪田金十郎 明治七年 備中川上郡九名村阪田雅夫」という碑が建っています。阪田雅夫は桂作の兄です。坂田家は雅夫の子貢が玉島で干拓事業(坂田新開)を行っていますし、猪木、坂田両家の縁は深かったものと思います。
分家の墓地は下に同様の石囲みで設けられています。
與平 ――+――三有良 明治23 | 明治14 室浅野氏 | +――初吉 ――千十郎 昭和17 室 室那須氏
與平妻は有井村浅野源左衛門次女ですから、母の実家から妻を迎えている、もしかしたらいとこ結婚かも知れません。
初吉に相当する墓碑には戒名の他には一切の情報がありませんが、千十郎の墓碑に「初吉長男」とあります。
千十郎妻は川上郡大賀村字仁賀那須森太郎次女清子、これは高本懋妻光子と姉妹です。
分家の墓地内に「節士猪木義基之墓」が建てられています。義基は與平より三十六年後の生まれですから、與平の子、つまり義直の孫になるのかも知れませんが、母中野氏というのはよく解りません。
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