三宅(児島)家
下道郡薗村有井小山
真備町箭田の妹尾一族の調査のために境地区を歩き回るうちに、隣接する小山のお稲荷様に迷い込み、その鳥居と灯籠に、「三宅又三郎常昌」「三宅甚三郎常房」という記録を見つけました。又三郎常昌は、尾上則武家系図や墓石に記された、間野文太夫妻婦喜の外祖父に当たる人です。これは是非ともお参りしてみなくてはいけないと思い、お稲荷様の下を歩くご婦人に尋ねてみました。もうこの付近には三宅姓の家はありませんが、住宅に囲まれた一画に立派な墓碑群に案内していただきました。
この家は射越屋吉兵衛徳視次男又三郎直行が小山に分家したのに始まります。
又三郎直行――+――治郎兵衛元常 享保8 | +――甚三郎昌常 ――+――氏庸 ――+――又三郎常昌――+――甚治郎常房 ――+――藤 元文2 | 天明3 | 文化3 | 文化1 | 植田方清妻 | 室橋本氏 | 室水川氏 | 室植田氏 | | | 室松田氏 | +――政 +――甚三郎章家 | +――与世 堀家清幸妻 +――女 | 則武勝英妻 池田恒則妻 | +――右門敬齋 文化11
常房の墓碑に直行5世孫とありますので、居士号を持つ甚三郎と氏庸を年代順に並べてみました。常昌と常房の親子関係は墓碑に明記されています。氏庸妻橋本氏は、射越屋との縁が深いこちらの橋本家だろうと思います。常昌の後妻は妹尾の松田氏とありますが、右門以外に生んだ子は皆幼くして亡くなったようです。倉敷児島屋植田家の墓碑文から、常房の娘の1人が方清妻となったことが判っていますが、常房の後がどうなったのかは墓石からは判りません。ただ、後述の右仲豊の墓碑文に、文政10年に三宅甚三郎昌常の後の祭祀を嗣いだことが記され、右仲豊の跡を嗣いだ百五郎方條について書いたものにも岡田の三宅常房の跡を嗣いだとあるので、常房の代で絶家したと思われます。常房妻は天保7年まで生きているので、おそらく常房嗣子が文政10年頃に幼くして亡くなったために親族間でこの様な取り決めになったのだろうと思います。
元常は直行の長男でありながら分家したことが、2代元貴の墓碑に記されています。
則武勝英の次女が間野文太夫妻ですから、間野文太夫と植田方清は、その妻同士が従姉妹という親類関係だったことが判ります。嘉永5年に死去した則武勝英妻の香典帳には両名が記載され、三宅右仲妻(安政3年歿)が法名で載っています。
百五郎方條の墓碑は総社市西山にある西戎屋亀山家の墓地にもあり、倉敷の児島屋植田家にも建てられているそうです。三宅家の墓碑には遺髪を埋めたとありますが、弱冠31才で亡くなった人の墓が3つもあるのは珍しいと思います。
治郎兵衛元常==治郎兵衛元貴――+――治郎兵衛元徳――+――所助順 ――+――文輔景僑 ――+ 寛延3 水川氏 | 文化4 | 文化12 | 天保12 | 室三宅氏 寛政1 | 室土肥氏 | 室三宅氏 | 室関野氏 | 室中島氏 | 室 | 室天野氏 | 室有元氏 | 室木下氏 | | | | +――女 +――都知 +==右仲豊 ==百五郎方條 | | 三宅徳義妻 | | 片岡氏 亀山氏 | | | | 天保13 安政7 | +――女 +――登志 | 室順娘 | | 三宅徳貫妻 白神安孝妻 | | | +――元 | +――元敬 | 関野信好妻 | | | +――須恵 | 三宅徳寧妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――成夫節 ――+――婦亭 | 明治8 | 浅野長慶妻 | 室井上氏 | | +――女 +――竹 | 加藤待庵妻 | +――謙三郎緝 | 嘉永5 | +――譲四郎徳明――+――熊雄 ――+――順 ――大八郎 | 明治20 | 昭和20 | 平成12 | 室三島氏 | 室赤木氏 | 室中村氏 | | | +――女 +――斐夫 +――泰 | | 日笠家嗣 片山茂雄妻 +――貞 | 難波朔元妻 +――女 | 小野達郎妻 | +――民 岩月斧太郎妻
元貴は元常の外甥と書いてあります。後妻は邑久郡牛窓村の木下氏ですから、東原家と縁戚の木下氏だろうと思います。この木下氏が生んだ子のうち元敬だけが成人し分家、故有って建部氏を称するとあります。
元徳以降の墓碑は有井大年山中腹竹藪の中にあります。藪蚊に大量の献血をしながらやっと探し当てました(^_^ ;
元徳と順の墓碑には戒名の他何も彫られていませんが、一緒に建てられている妻の墓碑から墓が同定できます。元徳妻土肥氏父昌平の5代前の先祖照平は松山池田家に仕えた侍で、池田家改易後に矢掛に住んだそうです。
所助順は小山の三宅一族で最も有名になった人です。寛政年間に赤穂赤松蘭堂に漢学を学び、大庄屋、徒士務、勘定奉行と出世、晩年には郡奉行に就任しました。
児島屋は享保年中の岡田藩札の札元になっていたくらい財力があったようです。札元(発行元)というのは、紙幣の保証を自らの財力で行うということですから、名誉なことではあっても、藩に金庫を丸ごと差し出すのと同じで、たいへん危険でもあるわけです。財政建て直しの逸話は洋の東西を問わずありますが、要するに公金に寄りかかって生活する人達の経済観念はみな乏しいので、公の金庫はどれも危なくなるのが当たり前です。
所助後妻天野氏は2女を生んで、これはそれぞれ関野信好、三宅徳寧に嫁いでいます。
元貴と利左衛門良の墓誌には「所助の依頼で赤穂赤松毅が謹んで記す」とあります。
景僑妻は本州高松関野信倉娘とありますので、信倉と信好が親子になるのだろうと思います。こういう縁戚関係も多くの家で見られます。景僑妻は一子成夫を産んだ直後に早世しています。後妻は有元佐之娘、この有元氏はこちらで紹介している一族だろうと思います。有元氏は2男2女を生み、このうち2男1女が成人したようです。景僑は号を晩齋といい菅茶山に学んでいます。
成夫の長男謙三郎は嘉永1年に相続しますが、その4年後に26才で死去していますので、弟の徳明が嗣いでいます。倉敷市藤戸の日笠家(分家)を相続している斐夫が、吉備郡服部村穂井田三宅譲四郎徳明次男母三島氏とあり、浅口郡金光町の小野達郎妻が吉備郡服部村穂井田三宅徳明4女とありますので、泰徳明=譲四郎、当時は穂井田に居住していたのだろうと思われます。
熊雄は9代とあるので、直行を初代として数えていることが判ります。
甚三郎章家――+――治郎三郎徳紀――+――和左衛門良 宝暦8 | 明和9 | 寛政4 室三宅氏 | 室田邉氏 | 室片岡氏 室廣井氏 | 室三宅氏 | | +==禮助進徳 ――+――禮助嘉徳――+――武平治長徳 +――専輔徳貫 佐藤氏 | 安政6 | | 文政8 | 室三宅氏 +――実蔵 ――正 ――茂男 | 室片岡氏 | 室三宅氏 大正9 昭和12 +――きわ | 瀬原喜澄妻 +――女 中西家嫁
章家と徳紀のつながりは戒名と生存年代からの想像です。章家の妻も墓地内に並んだ墓碑から相当すると思われるものを選びました。徳紀以降は墓碑から証明可能です。利左衛門の母は三宅氏です。利左衛門は24才という若さで亡くなったため、親族会議を開いて、その妻片岡氏に婿養子禮助を迎えて相続させたということが片岡氏の碑文に書いてあります。片岡家系図には、この片岡氏曽衛(系図では楚恵)は「有井村小山三宅利左衛門嫁 三宅弘助跡入」となっています。
禮助進徳の墓碑には児島郡福田新田佐藤某男となっていますが、古新田干拓に関わった佐藤家の系譜によると、周右衛門穏直の息子の1人に「近衛下道郡有井村三宅和市養子」とあり、この人が進徳に当たると思います。
嘉徳妻は射越屋三宅氏、後妻は酒津三宅氏です。両三宅氏は共に児島高徳の後裔と伝えているので、過去のどこかで繋がるのかも知れません。
嘉徳の長男武平治長徳の墓碑(供養塔)には
「天保10年生まれ、明治8年に一家離散となり、その後行方不明となる。昭和13年3月に甥にあたる倉敷市大内の三宅天涯が墓碑を建てる」という驚くべき事が彫られています。恐らく、時代の荒波に耐えきれずに郷里を捨てたようです。
その傍らに巨大な累代墓が建てられ、岡嶋屋三宅家の墓と大書されています。裏の墓標に、禮介7男實蔵夫婦とその次男正の歿年月日戒名が彫られています。岡嶋屋というのは岡田村射越屋の斜め前にあった豪商だそうです。
専輔徳貫――+――鉄 文化13 | 土肥禮妻 室元貴娘 | +――律 | 吉富善與妻 | +――徳一 | +――直政 | 太田家嗣 | +――守助実徳 ――綱右衛門 文化14 安政3 室中嶋氏
徳貫は章家の第3子で児島と改姓したそうです。徳一は大坂へ移住したと書いてあり、家は末弟の守助が嗣いでいます。
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