井上家・宮崎屋
窪屋郡倉敷村





倉敷美観地区の最古と云われる宮崎屋井上家の建物表に掲示している解説によると、6代栄俊が享保年間に建てた物のようです。高い塀の土台石には、近所の水澤家跡地に遺っているのと同じ真っ黒な豊島石が認められます。この前の通りは、観光客で賑わう倉敷川沿いの通りから1本阿知神社側に入った通りで、かつての倉敷村のメインストリートでした。
古禄衆の1つとして、庄屋の小野家と共に、現在も倉敷で生き残っている貴重な家です。

先祖は清和源氏、新羅三郎義光から、義清、清光、遠光(加賀美濃守)と下って、その2子長清(阿波国守護)が小笠原氏を称します。その子孫時清の次男貞清が高畠氏を名乗り、そのまた子孫和泉守が応永年中に備前国児島山坂、備中国宮崎村(都窪郡早島町宮崎)にやってきたようです。和泉守は元亀年中(1570〜1573)に小串村(岡山市)に城を構えました。倉敷市史に、この丸山城についての記述があります。和泉守の子市正の時、天正17(1589)年に落城し、一族は方々へ離散したとあります。元和元年、児島の高畠和泉守市正が、早島町宮崎の鶴崎神社の屋根の葺き替えに寄進したという記録があります。
和泉守市正の子太郎太夫は剃髪して元友と改め備前池田家に仕えて6人扶持で牛窓御茶屋に勤務していました(寛永1歿)。その子彦兵衛(万治3歿)も牛窓にて舩の御用係として勤務しますが、次の惣七郎の代から本藩に転勤となったそうです。
市正の次男新右衛門は倉敷村に移住して宮崎屋井上と称しています。

新右衛門――次左衛門――+――三郎右衛門――+――次左衛門    ――+――三郎右衛門  ――+
寛永11  寛永8   |  貞享4    |  元禄3       |  享保15     |
            |  室井上氏   |  室難波氏      |  室吉田氏     |
            |  室岡氏    |  室禰屋氏      |           |
            |         |            +――女        |
            +――太郎右衛門  +――六郎右衛門     |  難波傳右衛門妻  |
            |  油屋吉田家  |  分家海津屋     |           |
            |  へ養子    |            +――女        |
            |         +――女         |  小野露堂妻    |
            +――新右衛門      渡辺市郎右衛門妻  |           |
               分家華屋                +――宗十郎      |
                                               |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――安兵衛永俊――+――女
   宝暦3    |   藤井信賢妻
   室吉田氏   |
   室大森氏   +――安兵衛智俊
   室小野氏   |  寛延4
                 |
          +――安兵衛英守
          |  明和3
          |  室村田氏
          |
          +――五蔵永美 ――三郎右衛門広輔==三郎右衛門惟寧――+――田簑
          |  寛政7    天保11     万延1      |  浅野長義妻
          |  室菅氏    室細川氏     室浦上氏     |
          |  室剣持氏            室金出地氏    +――信蔵惟承 ――+
          |                           |  明治40   |
          +――女                        |  室高戸氏   |
             鳥羽平吾妻                    |         |
                                      +――秀三     |
                                      |  華屋相続   |
                                      |         |
                                      +――虎三     |
                                                | 
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――冬太郎     ――+――栄夫      ――+――女
|  昭和6       |  室三木氏      |  河相誠一郎妻
|  室浅野氏      |            |
|            +――益雄        +――男
+――音三郎       |  奥藤研造の養子   |  室
|  山路幸太郎の養子  |            |
|            +――滝野        +――女
+――女         |  大内証太郎妻
|  真殿健二郎妻    |
|            +――松枝
+――女            土屋照雄妻
|  堀謙次郎妻

+――女
|  石井始三郎妻

+――兒女
   尾崎生三妻

正徳元年の宗門帳では、

高31石4斗9升9合
安兵衛     28歳  真言宗観龍寺
伯父伊右衛門  34歳
母       58歳
祖母照貞    74歳
(中略)
父圭堂     58歳 28年以前遁世仕、大坂天王寺観音寺に住居仕候
伯母貞寿    54歳 平田村加右衛門方へ28年以前縁付
伯母くり    51歳 当村助右衛門方へ35年以前縁付

当主の安兵衛は6代目、伯父伊右衛門は上記の系図で宗十郎のことのようです。父三郎右衛門(圭堂)が30歳で出家して大坂へ出たので、母子は東油屋に住んで、圭堂の弟宗十郎を後見にしていたようです。祖母照貞は、4代の継室で、享保2年に80歳で死去しています。5代の母は4代の先妻難波氏のようですが、この人が亡くなった翌年に圭堂が出家しているようです。出家している年には圭堂長男孫太郎の死去(享年3)という出来事もあり、こういう身近な人の死が出家のきっかけかも知れません。出家した年には次男の安兵衛は母(吉田氏)の胎内にいたようです。

7代、8代は共に早世して、いったん分家の華屋を嗣いでいた末弟五蔵が戻って相続しています。この妻は讃州金比羅山麓(香川県琴平市)菅左平太政甫の長女となっていますが、この菅家は、御津郡建部町下神目の菅一族と同族のようです。この人には子がなくて、窪屋郡西郡村(都窪郡山手村)の剣持(けんもつ)氏の生んだ子広輔が10代を嗣ぎます。

10代の広輔には子がいなかったので、分家の華屋井上保之の3男惟寧が相続しています。多くの家の系譜を見ていると、だいたい7〜8世代経つとこういう血脈が続きにくい事態が起きているように思います。年数にするとほほ200年くらいになり、財産の方も続きにくい期間となりますので、多くの家は絶家となります。こうして、古い家が次第次第に淘汰され、分家した新しい家が栄えるということ、それに人間の欲と好悪の感情が入り交じって家系を複雑なものにして行くのだろと思います。新禄古禄の争いの頃(寛政〜文政)には、宮崎屋五蔵の石高は118石、酒造株25石、借家65軒となっています。

分家華屋は本家宮崎屋の斜め前辺りにあったようです。

新右衛門――+――善左衛門 ――+――善左衛門   ==善左衛門永美==善左衛門保之――+
元禄11  |  享保10   |  延享3      宗家永俊男   文政12    |
      |  室大島氏   |  室井上氏             尾崎紹三男   |
      |         |                   室細川氏    |
      +――三蔵     +――いわ                       |
      |  加賀屋養子  |  弥三右衛門妻                  |
      |         |                           |
      +――きく     +――女                        |
      |  水澤好高妻  |  中田運重妻                    |
      |         |                           |
      +――きい     +――女                        |
      |  吉田永盛妻     岡崎家嫁                     |
      |                                     |
      +――ひさ                                 |
         中田重世妻                              |
                                            |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――善左衛門三寿 ==秀三惟焔
|  天保11     明治25
|           惟寧男
+――三郎左衛門惟寧  室尾崎
|  宗家を嗣ぐ

+――女
|  高戸正義妻

+――女
   高戸正義妻

正徳元年の宗門帳では、

高20石6斗4勺
次郎兵衛    43歳  真言宗観龍寺
女房      25歳 小田郡三成村与左衛門方より8年以前縁付
姪そね     14歳
父善左衛門   63歳
従弟すな    52歳
(中略)
伯母ひさ    53歳 宮内村清左衛門方へ37年以前縁付
妹いわ     41歳 当村弥三右衛門方へ26年以前縁付
同ふく     39歳 宮内村源蔵方へ21年以前縁付

当主の次郎兵衛は、上記の系図の3代善左衛門のことです。姪「そね」というのは、都宇郡加茂村(岡山市)の岡崎家に嫁いだ妹「つま」の子で、「つま」は娘を華屋に置いて再縁しています。「そね」は後に窪屋郡酒津村の三宅助左衛門に嫁いでいます。

初代の娘が嫁いでいる水澤彌右衛門は井筒屋の分家大津屋の人です。吉田は宮崎屋の株家で児島郡から移住した油屋で、中田というのは賀陽郡宮内村(岡山市吉備津)の庄屋中田家です。正徳元年の宗門帳が作成された時点で、水澤家と吉田家に嫁いだ人は亡くなっていたのでしょう。3代の妹の嫁ぎ先の岡家は同じ古禄の1つ蔦屋岡氏です。2代の妻は大島屋の分家塩屋大島氏です。

この家も3代で続かず、宗家から養子を迎えたけれども、その宗家の方が跡継ぎがなくなって養子が戻るという始末で、都宇郡帯江村加須山(倉敷市)の庄屋尾崎家から養子を迎え、児島郡林村の五流太法院細川家からその妻を迎えて跡を継がせています。この細川氏は、宗家10代広輔の妻と姉妹になるようです。ということで、宮崎屋井上家の本家も分家も血脈が見事に入れ替わっていることがわかりますね。新禄古禄の争いの頃には、華屋和太郎の石高は10石、酒造株20石となっています。

海津屋も初代六郎右衛門、2代善五郎で、あっけなく破産絶家しています(享保12)。初代の妻は和泉屋岡氏、2代の妻は小田郡矢掛宿本屋江木三郎太夫の娘です。正徳の宗門帳には該当する記載がありません。


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