治部家・かがみ屋敷
久米南條郡神目村



先祖は日向国(宮崎県)菊池郡阿賀多城主菊池日向守武直の家老治部右近少輔で、菊池氏と共に足利氏と戦い、敗退して各地を流浪した末に、文和元(1353)年作州にやってきて帰農しました。江戸時代は代々この地の庄屋を勤めていました。

弥三郎助常――某  ――三郎兵衛――三郎兵衛――+==三郎兵衛――+――万兵衛  ――+――恒四郎典則――栄次郎典利――+
元禄6         延享5   寛延2   |  江田氏   |  天保6    |  明治4    明治27   |
            室河本氏  室     |  天明8   |         |  室      室土居氏   |
                        |  室     |         |                |
                        |        +――もと     +――元四郎           |
                        +==米蔵       平尾直高妻  |  文政6           |
                           寛政9             |                |
                                           +――巻             |
                                              石井恭蔵妻         |
                                                            |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――寿太郎  ――+――栄    ――+――女
|  昭和3    |  昭和53   |  片山・・妻
|  室小林氏   |  室藤井氏   |
|  室甲田氏   |  室島津氏   +――男
|  室氏    |         |  室播村氏
|         +――綾      |
+――貞次郎    |  龍治醇妻後  +――光代
|  土居家嗣   |  笠井健次妻  |  長谷川・・妻
|         |         |
+――禮三郎    +――次郎     +――光代
|  分家     |  明治26   |  高島・・妻
|         |         |
+――松四郎    +――琴      +――男
   分家     |  土居通・妻  |  室児島氏
          |         |
          +――寛      +――光代
          |  大正7       薬師寺・・妻
          |
          +――萬
             明治33

三郎兵衛という人が何人も見つかり、ほぼ同年代に生存したと思われる人もいて、たいへん難解です。三郎兵衛(寛延2歿)の妻は「三郎兵衛祖母」とあり、この人の生年はその隣に墓碑がある「三郎兵衛父=江田助三郎」とほぼ同じです。そうすると、三郎兵衛(天明8歿)は江田家から迎えられた養子ではないかと思われます。その妻は享和元年に死去していますので、三郎兵衛(天明8歿)は比較的早く亡くなった人ではないでしょうか。そうすると、米蔵は三郎兵衛(天明8歿)の後入り養子かとも思えます。米蔵(寛政9歿)は○○院○○○○居士という当主並の戒名で、三郎兵衛(天明8歿)と万兵衛(天保6歿)の間一世代分を埋めるのに適当な人だろうと思いますが、妻に相当する墓碑が見当たりません。



治部邸は現在、研修会、サークル活動などの宿泊施設として利用されています。

分家

松四郎  ――+――女
昭和27   |  大倉・・妻
氏    |
       +――女
       |  大喜多・・妻
       |
       +――貞雄     ――男
       |  平成9
       |  室関氏
       |
       +――登志
       |  大正9
       |
       +――女
          大喜多・・妻





大前という分家の系譜は次の通りです。

八右衛門助信――宇助助正==宇助正恒――+==宇助正路――宇一正直――+――八雄 ――+――宇助輔正  ――+
宝暦6     天明4   金島氏   |  金島氏   明治21  |  大正3  |  昭和12    |
室       室     文化11  |  嘉永2   室     |  室    |          |
              室横川氏  |  室           |       +――梅       |
                    |              +――亀五郎  |  佐藤永妻    |
                    +==常五郎            文久3  |          |
                       佐藤氏                 +――竹野      |
                       分家                     神坂高太郎妻  |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――正軌  ――+――直子
   昭和52  |  久保田家へ嫁
   室     |
         +――立郎
         |  室
         |
         +――守
         |  室
         |
         +――純子
            住田家へ嫁

墓地には八右衛門助信の1世代前と思われる女性墓もあり、本家からどの様に分かれたのかは不明です。
この家には津高郡富沢村の金島家から2代養子が入っていますが、金島家も九州菊池家との縁を口伝する家ですし、宇助正恒夫婦が夫婦養子であり、正恒が元服前に養子に入っていること、かがみ屋敷の墓地に弥三郎助常の供養塔を建てていることなどから、正恒の父母、祖父母などの近い血縁者が治部家から金島家に入った人であることが強く疑われます。

助正夫婦は墓地中央に高さ3mにも及ぶ供養塔を2基建てています。それは宝暦12年のもので、宝暦9年閏7月8日から法華経を開経し、同12年閏4月8日結願成就とあります。読誦は天台宗晏要印頼圓で当時69才、助正は49才、同妻42才、子の安次郎18才と記してあります。正恒の生年から計算すると安次郎=正恒となります。

正恒妻は下神目村横川甚十郎朗明長女陸です。
正路は和歌を好み、華道茶道にも通じた風流の人であったようで、墓碑の側面に崩し文字で辞世が彫られています。
しかし、宇一正直の代頃から家運は下降線を辿ったと思われ、明治の初年には百姓一揆で屋敷を焼き討ちされたという言い伝えもあり、明治30年に一家は北海道上川郡東旭川村に移住しています。



他に大前から下弓削に分家した新
宅という家があります。

常五郎正信――+――駒太郎正則 ――宰平正澄――+――たけ
佐藤氏    |  明治32    大正5   |  平尾薫太郎妻
安政5    |  室横川氏    室直原氏  |
室矢吹氏   |                +――雅子
       +――助五郎           |  竹内睦男妻
       |  嘉永7           |
       |                +――守   ――+――勲    ――+――襄
       +――女             |  昭和41  |  昭和63   |
          大倉左右治妻        |  室中島氏  |  室永山氏   +――卓
                        |        |  室青景氏   |
                        +――茂     |         +――良子
                                 +――初栄     |  定森家嫁
                                 |  大野徹之妻  |
                                 |         +――修
                                 +――章  
                                    室森氏

守の妻中島氏は、実は英田郡奥村の倉地保太郎長女とあります。常五郎正信は大庄屋御秤座に勤めたそうです。
津山藩に出仕した治部家もこの一族といわれます。


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