梶谷家・平野屋
窪屋郡中洲村酒津
私の高祖母濱の実家です(上写真は墓地)。
伊平次正辰は東高梁川西岸の本家から分家して材木商をはじめました(俗称大梶谷、平野屋)。
天領倉敷の発展に伴う建設需要に乗り、また金融業と地道な蓄財による土地所有の拡大によって、次第に大きな財力を築きました。
伊平次正辰――伊平次雅美――伊平次正次――+==健雄正路 寛政12 文政11 天保12 | 友沢氏 室森下氏 室太田氏 室岡氏 | 室正次長女 | +――絹 | 原世素妻 | +――伊平次正順――+――伊平次正幸==芳之丞 ――+ | 文久2 | 明治40 小畠氏 | | 室石井氏 | 室正路次女 大正2 | | | 室大西氏 室正幸長女 | +――梅 | 室平之進長女 | | 藤井宣安妻 +――平之進 | | | | +――喜勢 +――濱 | 太田直温妻 | 清水貞基妻 | | | +――瀧 | 古市孝継妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――堅一郎 ――+――男 | 平成5 | 室西脇氏 | 室河本氏 | | +――女 | | 矢野家嫁 | | | +――男 | | 室小泉氏 | | | +――男 | 室佐藤氏 | +――f次 ――+――女 | 昭和54 | 井口家嫁 | 室佐伯氏 | | 室大渡氏 +――典子 | 室松井氏 | 昭和36 | | 土田家嫁 | | | +――女 | | | +――寛 | | 平成1 | | 室田杉氏 | | | +――男 | | 室折原氏 | | | +――女 | 倉田家嫁 | +――三男也 ――+――女 | 平成12 | 太田家嫁 | 室内藤氏 | | +――男 | | 室生本氏 | | | +――男 | | 室 | | | +――男 | | 室 | | | +――女 | 平木家嫁 | +――マス子 小川正雄妻
二代正辰の妻は森下氏としか記録されていませんが、おそらく矢掛の森下家だろうと思います。
正幸には娘幸が一人しかいなかったので、小畠家から芳之丞という婿養子を迎えて跡を継がせました。しかし、幸は子をうむことなく十八歳で死去し、芳之丞は正幸の弟平之進(分家を相続)長女千代を後妻に迎えています。
堅一郎は芳之丞と千代の長男で、戦前から自動車販売業を始め、岡山トヨタ自動車販売KKの基礎をつくりました。農地改革によって戦前の大地主はみな大きな経済的打撃を受け、それがもとで完全に逼塞した家もたくさんあります。梶谷家も影響を受けましたが、財産の一部を商業資本に切り替えていたのが幸運でした。
資本を分散させて維持するのは商人の常識で、平野屋が材木商からはじまったという歴史に助けられたようです。
・・==平之進 ――+――亀麿正清 明治41 | 明治38 室家女 | +――千代 | 正幸養女 | +――鹿 | 明治35 | +――剛二
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本家の系譜をさかのぼってみました(上写真は墓地)。
平兵衛 ――平兵衛長次――+――平兵衛光政――平兵衛至利――源右衛門 ――源一俊治――丈太郎正朝――武雄 ――+ 享保9 安永4 | 享和2 文化14 嘉永6 明治19 明治26 昭和11 | 室 室 | 室 室 室小田氏 室梶谷氏 室浅野氏 室荘氏 | | | +――伊平次正辰 | 分家 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==五郎 荘氏 昭和27 室金田氏
平兵衛長次は安永四年に九十二才で亡くなっています(1775-92=1683)。平兵衛光政も享和二年に九十一才(1802-91=1711)で亡くなっています。伊平次正辰は享年が不明ですが、兄弟の年齢差が極端に大きくなければ寛政十二(1800)年の死去ですからやはり九十近い長寿の人であったように思われます。
墓地には、
「**房鏡與法師 享保九(1724)年
**妙宥清信女 享保十四年」
という大きな仏様を載せた墓碑があって、これが長次の両親と思われます。長次と光政の歿年が四分の一世紀隔たっているのに対して、鏡與法師と長次の歿年は二分の一世紀隔たっています。鏡與法師も当時としては短い命ではなかったと思いますが、子や孫と同じくらいのとんでもない長寿ではなかったようです。平兵衛が三代続いた襲名ですから、鏡與法師にも平兵衛の通称を当ててみました。
更に、鏡與法師の前をさかのぼってみます。平兵衛襲名家に隣接して、やはり移転された墓があります。平野屋とその本家の家紋は「矢橘」という珍しい紋ですが、この墓地の系は「丸に違い矢」です。「矢」という共通項があり、「違い矢」の方が簡素で多く使われている紋ですから、平兵衛襲名家の本家筋である可能性が高そうです。一般に装飾性の高い家紋は江戸時代に多く登場しています。
二ヶ所、どうも二家分以上の墓になっているようですが、いずれも鏡與法師と同じ頃、享保年間以降に亡くなった先祖からの墓碑になっていて、一ヶ所は一段高く祀られていてその中央に後に建てられたと思われる記念碑があります。即ち、
「華山宗雲信士 慶安二(1649)年 梶谷助四郎
秋般妙慶信女 元禄四(1691)年」
これは夫婦を祀ったもののようで、歿年が四十年も隔たっていますから、夫は比較的若くして亡くなり、妻はかなりな長寿であったと想像されます。平兵衛長次の生存年代と比較してみると、助四郎は祖父にあたると思われます。
墓誌判読が出来るものを下記のように並べてみました。兵重郎重雉が平兵衛至利の年代にほぼ一致します。
道寿 ――弥三右衛門 ――兵治朗 ――+――兵重郎重雉==伊太郎重忠――+――兵次郎 ――+――幾次郎 ――+ 享保3 元文2 安永9 | 文化10 | | | 室 室 室 | 室井上氏 明治6 | 室長瀬氏 | | | 室重雉嫡女 | | | | 室中原氏 +――まつ +――由太 | +――類 藤田政範妻 藤田政延妻 | 藤田穀徳妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――竹雄 ==義男 | 昭和18 内田氏 | 平成3 | 室森宗氏 | +――石野 内田家へ
これより先祖は記録に頼るしかないようです。
平野屋には近江の佐々木氏が後に「加地」、「梶谷」と改姓したという系図があり、最後が親宗の子小太郎親清、兵次郎親満、五郎吉宗佐の三兄弟で終わっています。この三兄弟から八世代さかのぼる義次は赤松満祐退治時兄弟共軍忠戦とあり、嘉吉元(1441)年発行の感状が伝えられています。親宗は備中松山城主三村元親に仕えて武勇抜群でした。
大梶谷の本家墓地に隣接した墓を持つ家が「へいじろう」を二代名乗ったことが確認できていますから、兵次郎親満はたいへん興味深い名です。松山落城は助四郎の歿年から四分の三世紀さかのぼりますが、助四郎がこの系図に続く人であると思われます。
大梶谷家の由緒書(文政十三年)に、
「先祖は当国松山城三村家落去(天正三年1575)之節浪人と申伝候年暦は凡二百五十年来酒津村住居数代相続之ものに御座候」
とあり、天正年中の備中松山城三村氏が滅んでから文政十三年迄の間約二百五十年に亘って酒津に住んでいたと述べています。
「中洲町史」に西酒津の平姓梶谷氏の紹介があります。
「通称は元次、諱は止信、字は子交、号は坦齋、屋号を白賁館。十三代梶谷之信の長男、その先は平良文十一世の孫光邦、その子孫が陸奥国梶谷駅に住みその地名を姓とした。光邦十六世の孫道清の次男弥一郎道信はその母難波氏を頼って文明六(1474)年に酒津に移住、以後代々豪農であった。七才で母を失い、成長の後鷦鷯春齋から経史を学び、陶齋の書を習って詩、書をよくした。弱冠で父に代わって家政を執り、家業の合間に近郷の地図を作製した。弘化二年に父に先立って死去、享年三十、非戸山の先祖墓地に葬る。謚一閑道甫、墓誌は篠崎小竹による。墓地は高梁川改修のため辻の谷に移転された」
文明六(1474)年に弥一郎道信が酒津に来たのが始まりとなっていて、平野屋の先祖が酒津に来るより更に百年ほど歴史がさかのぼるようです。
平野屋先祖が、三村家の滅亡後に、なぜ平姓梶谷氏の居る酒津にやってきたのかというと、やはりもともと親族であって暮らしやすかったからだと考えるのが自然で、私が今までに調べてきたいくつかの家(守屋、田中、鳥越)の事情と共通するように思います。
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