梶谷家
窪屋郡中洲村西酒津
中洲町史に酒津の梶谷坦齋という人が紹介されています。。
坦齋の紹介文に、
「通称は元次、諱は止信、字は子交、号は坦齋、屋号を白賁館。十三代梶谷之信の長男、その先は平良文十一世の孫光邦、その子孫が陸奥国梶谷駅に住みその地名を姓とした。光邦十六世の孫道清の次男弥一郎道信はその母難波氏を頼って文明六(1474)年に酒津に移住、以後代々豪農であった。七才で母を失い、成長の後鷦鷯春齋から経史を学び、陶齋の書を習って詩、書をよくした。弱冠で父に代わって家政を執り、家業の合間に近郷の地図を作製した。弘化二年に父に先立って死去、享年三十、非戸山の先祖墓地に葬る。謚一閑道甫、墓誌は篠崎小竹による。墓地は高梁川改修のため辻の谷に移転された」
大梶谷家は近江佐々木源氏末流と伝えていますので、同じ狭い地域の同姓の家が桓武平氏であるというのはどういうことだろうかと疑問を持ちました。
大梶谷家の由緒書(文政十三年)を見直してみました。
「先祖は当国松山城三村家落去(天正三年1575)之節浪人と申伝候年暦は凡二百五十年来酒津村住居数代相続之ものに御座候」
とあり、天正年中の備中松山城三村氏が滅んでから文政十三年迄の間約二百五十年に亘って酒津に住んでいたと述べています。
文明元(1474)年に弥一郎道信が酒津に来たのが始まりとなると、大梶谷の先祖が酒津にやってきたのは、元梶谷の先祖が定住して百年(三〜四代分の期間)ほど後になるようです。
大梶谷の先祖は松山落城の後、なぜ酒津にやって来たのかというと、それは同姓、つまり親族が迎えてくれたからではないでしょうか。
三田の守屋一族も、一方に福山合戦以降に三田に土着したという家があり、また一方に龍ノ口合戦の後に三田に帰農したという家があって、お互いに株が違うと云います。しかし、狭い地域をとくべつに選んで同姓が集まるというからには、なにか引かれ合う条件があったのではないでしょうか。
井原市下出部の田中家と井原市東江原の田中家は共に清和源氏でその遠祖系図はほぼ同です。しかし、東江原の田中家には九州大分の大友氏支族という系図を提示している家もあり、大友家滅亡の後に東江原に帰農したという説明です。更に面白いことに、井原市から県境を越えて、福山市神辺町八尋に葛原という家がありますが、この家は先祖が九州大分の大友氏といい、下出部の田中家との重縁があり、また大江村田中氏(これは下出部村田中家の分家)とも重縁になっているようです。つまり、現在の井原市から神辺町に及ぶ広い地域に田中氏が勢力を持っていて、その一つの株家が九州大友氏に仕えて出世、大友氏滅亡後に先祖の土地に戻ってきたのではないでしょうか。
他に、矢掛町東川面の鳥越家は九州方面から来住と云いますが、備中南部は古代から鳥越氏が勢力を持っていた所でもあります。戦乱の世に一族の誰かが九州方面で活躍した後、世の移り変わりと共に祖先の土地に帰農したと考えるのが自然なように思います。九州方面からの移住伝説を持つのは、他に笠岡市の田中屋鳥越氏、窪屋郡福井村の庄屋鳥越氏を知っています。
「中洲町史」にある流山城(西酒津八幡山)の記録に梶谷八郎兵衛という人が出ています。これは中世から酒津に梶谷氏が居住していた証拠の一つと思われます。即ち、永禄四(1561)年四月、流山城主高橋氏の家臣梶谷八郎兵衛が備前龍ノ口城将の撮庄治郎を討ち取っています。
元梶谷
弥一郎道信――源太郎道貞――弥一郎隆信――庄左衛門信正――清右衛門信明――正太郎信時――藤右衛門尊信――+ 天文2 天文19 天正9 元和1 寛永18 貞享2 延宝2 | 室大原氏 室植田氏 室横溝氏 室庄氏 室小野氏 室小野氏 室 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==謹吾衛門義信――文右衛門道信――仙右衛門信祥――八太夫良信――+――八太夫光信==八太夫之信――+ 若林氏 元文1 元文3 文化6 | 文政5 若林氏 | 元禄16 室横溝氏 室大熊氏 室中藤氏 | 室阿部氏 嘉永5 | 室尊信娘 | 室光信娘 | +――女 室大原氏 | | 若林善重妻 | | | +==紋兵衛 | 分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――元次止信 | 弘化2 | 室田渕氏 | +――保吉*信 ――+――朝 | 文久2 | 長尾要平妻 | 室石原氏 | | +――糾 ――+==武夫 ――+――富 +==八藤太厖信 大正5 | 近藤氏 | 浦田氏妻 東氏 室吉田氏 | 昭和35 | 明治36 | 室糾長女 +――恒 室石原氏 | | 原英胤妻 +――寿 | 鈴木益三妻 +――彌壽男 ――+――剛 平成18 | 室國松氏 | +――男
*=「糸句」
八太夫良信以前は配偶者の姓のみで詳しくは判りません。横溝というのは高梁川沿いのすぐ上になる柳井原、梁場城主の横溝一族でしょうか。大熊氏も東酒津の北、黒田村にあります。他に、庄、小野、中藤も本ウェッブサイトで紹介している家との関係が気になります。謹吾衛門義信の実家若林家は八太夫之信の実家と関係がありそうです。
八太夫光信(文化六年 七十六才 1809-76=1733))妻は「本州琴里阿部氏」とあります。葛原匂当の日記に
「猿掛山も打ち過ぎて『お琴の里』と名も高き、妹村の阿部に泊まりける」
と記されています。吉備真備の「琴弾岩」がある土地だからこう呼ばれるのでしょうか。
光信妻の実家が妹村の大阿部と呼ばれる家とすれば、與蔵章敏とほぼ同世代になります。
同所にある同姓墓碑を調べてみました。これらは全て株家のようです。
元梶谷を含めてほとんど全てに「蔦」紋が認められ、東酒津小山にある(大梶谷以外は川の改修工事で移転されたもの)墓碑に共通して見られる「矢」を基本にした家紋と対称的です。
元梶谷新宅
治右衛門貞次――治右衛門廣信――+――大賢 天明6 天保10 | 嘉永5 室 室 | +――治右衛門康信――+――太郎次信智――+――貞太 | 安政6 | 明治32 | 明治23 | 室小川氏 | 室若林氏 | | | +――兼吉 ==哲二 +――義信茶煙 +――茂平 昭和2 治郎二男 分家 義信跡嗣 室 昭和47 室谷野氏
東梶谷
義信茶煙==茂平定信――+――文太郎正信==萬亀治 明治3 康信三男 | 明治33 禰屋氏 室 明治22 | 室 室 | +――庸次郎 | 禰屋家嗣 | +――松江 昭和41
大前
久左衛門 ――兵五郎 ――久右兵衛門道方――久右衛門實定――+――国蔵實信――+――国次郎 ――+ 宝暦4 天明7 文化3 弘化2 | 慶應2 | | 室 室 室三宅氏 | 室 | 室大熊氏 | | 室鷦鷯氏 | | | +――ふみ | +――常介 | 藤田順治郎妻 | 難波家嗣 | | +――新七郎 | 明治18 | 室 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――武一郎實忠 | 明治27 | +――兵五郎實正 | 明治42 | +==金平 鳥越氏 昭和20 室岩田氏
「大前」と刻んだ燈籠を建てています。初代久左衛門は元梶谷仙右衛門信祥と兄弟になるでしょうか。實定妻美野は「嵯峨野村三宅傳右衛門嫡女」です。實信妻佐伊は「西阿知村鷦鷯謙光娘」で、連島西之浦の有元彦造易全妻末寿の妹になるようです。鷦鷯氏は坦齋が師事した鷦鷯春齋の家の人に違いないと思いますが、春齋との関係は不明です。
倉敷市史に西田井地難波氏後改湧川氏の略系があり、
「深七郎初名常介 窪屋郡酒津村梶谷久右衛門六男 竜太郎三女春の婿養子となって入嗣 天保十四年三十四才で名主 安政四年大庄屋 明治十四年七十二才」
という記録があります。
大西
弥次右衛門 ――佐次兵衛義貞――清三郎義昌――+――梅 寛政5 文化3 安政5 | 大野弥三郎妻 室 室鳥越氏 室平川氏 | +――清三郎 ――敏太郎 ――鹿太郎 明治31 昭和20 室亀山氏 室内藤氏 室大野氏
義昌妻加農は「西阿知村平川喜三エ門娘(文政二年 二十六才)」で、娘梅の姑和佐(文久三年 七十八才)が西阿知村平川喜三右衛門娘ですから、加農は和佐の妹になるはずです。西阿知村平川家系図には加農の記載が漏れていることが判りました。
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・ ――・ ――弥平治辰幸――多平治辰之――金五郎 ==・ ――庄三郎 ――+――嘉一郎 元禄5 明和7 寛政12 天保12 三宅氏 明治29 | 明治29 室 室 室 室 嘉永7 | 室 室 +――吾 室 | 明治42 | +――美知 | 齋藤忠質妻 | +――・ ――+ | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==輝太郎 友野氏 平成11 室小原氏
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紋兵衛 ――+――丈太郎道信 ==治郎 ――+――巌 ――+―― 一郎 小郷氏 | 明治32 渡邊氏 | 昭和14 | 昭和20 天保9 | 昭和11 | 室 | 室良信娘 | 室道信長女 | +―― 室良信娘 +==清吉 +――哲二 大橋氏 新宅嗣 嘉永7 室紋兵衛次女
初代紋兵衛は都窪郡栗坂村の小郷氏で、元梶谷良信の娘伊恵婿養子として入り分家しているようです。
・ ――藤兵衛 ――+――藤兵衛 天明8 文化13 | 嘉永2 室 室 | 室佐野氏 | +――鐵蔵 ――暦太郎 ==塚太郎 ――菅太郎 ==博一 天保11 明治25 小山氏 昭和39 稲岡氏 室横溝氏 室梶谷氏 大正13 室花土氏 昭和47 室暦太郎三女 室菅太郎三女
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利左衛門 ――利左衛門 ――・ ――・ ――利平次 ==源太郎 ――+――頼雄 ――+ 明和1 文政2 寛政1 明治15 瀬良氏 | 昭和46 | 室 室高見氏 室 室渡辺氏 室村川氏 大正15 | 室保崎氏 | 室守屋氏 室難波氏 室 | | +――二女子 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――良彦 | 昭和55 | 室吉信氏 | +――和子 | 出原氏妻 | +――信子 | 棟久氏妻 | +――敬
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八三郎直保――+――龍蔵 文政7 | 文政11 室石井氏 | +――多左衛門以静――+――みつ 嘉永3 | 梶谷暦太郎妻 室山下氏 | 室 +――八郎治 ――+――大一郎 明治39 | 明治22 室横溝氏 | +――治郎 明治12
他に、西梶谷という株があり、徳川時代末期の酒津村年寄に「梶谷野右衛門」、明治維新以後の酒津村戸長に「梶谷廉平」とあるのが(都窪郡誌)この家です。廉平妻は河田治兵衛景季の娘です。
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