小野家
浅口郡大谷村
小野家は同郡長尾村(倉敷市玉島長尾)の小野家の分家ということです。本家7代、忠道の3男善七郎が、寛延元(1748)年、一族の小野十郎兵衛が所有していた田畑の管理のために、本家の兄弥右衛門から分産して大谷村に移住したということです。しかし、今のところ、この家譜に登場する長尾の小野氏の墓碑を確認できていません。
中務――源兵衛――+――治郎兵衛――次郎兵衛――次郎左衛門――+――次郎左衛門 | 室花房氏 | +――源兵衛 +――六郎左衛門――+ | | +――治右衛門 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――太左衛門 | +――七左衛門 | +――仁兵衛忠道――+――弥右衛門 | | +――砂右衛門 +――弥曽右衛門 | +――善七郎(後に儀兵衛茂郷)
上記が大谷村に移住する前の大略になりますが、初代中務は天文年間に讃岐国から長尾村浜の屋敷に移住したとあり、長尾の篠屋系譜に出てくる中務大輔重次と同一人物だろうかと気になります。重次は天正10年に長尾村に篠屋を興したということですが、天文年間と天正10年の間は約30年の開きがあります。この疑問を解く鍵の1つが鴨方町地頭上の塚村家の墓碑にあると思いますが、いまだ頭の中で整理が出来ません。おそらく、小野中務重次の後裔はとてもたくさんに分かれているのではないかというのが印象です。玉島上成にも小野という旧家があり、これも長尾の小野一統と云っていますが、こういうカードを出来るだけ詳細にみてゆく課程でなにかお互いの関係が判るのではないかと期待しています。次郎兵衛の妻は備中猿掛城主毛利伊予守元清の家臣花房外記の娘とありますので、長尾の篠屋先祖が備中猿掛城の麓に住んだ小野和泉守正直ならば、戦国時代の付き合いの延長線上の縁組みではないかと思われますが、和泉守から、その孫の孫になる中務大輔重次の代までに、猿掛城からどういう経緯で讃岐国を廻ったのかがよく解りません。
儀兵衛茂郷――+――本兵衛周春 ――光右衛門以正――+――柳 天明2 | 寛政9 安政5 | 三島寿太郎妻 室高戸氏 | 室土師氏 | +――儀兵衛善周 室篠井氏 +――四右衛門必正――+――慎一郎中正 ――+ | | 慶應1 | 大正9 | +――三右衛門茂周 | 室下野氏 | 室川手氏 | 高戸家嗣 | | | +――武七 +――女 | | 窪津家へ養子 | 原定保妻 | | | | +――嘉次太 +――女 | | 塚村家へ養子 | 中島年行妻 | | | | +――伸 +――女 | | 塚村可保妻 | 白神良太郎妻 | | | | +――登幾 +――麗正 | | 塚村可保妻 | | | +――金次正心 | +――高 | 永原家嗣 | | 中島年行妻 | | | +――*谷 | +――睦 | 神崎信成妻 室神崎氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――達郎 ――+――鐵之助 ――+――女 | 昭和14 | 平成2 | 近藤家嫁 | 室小畠氏 | 室久保氏 | | 室三宅氏 | 室国友氏 +――慎一郎 | | | 平成5 +――玉樹 +――清音 | 室谷岡氏 木谷靖妻 | | +――文枝 +――男 | | +――三千遠 +――男 | | +――須恵子 +――女 | | 阿蘇家嫁 +――邦栄 | | +――女 +――百之助 | | 室赤木氏 +――女 | | 杉原家嫁 +――須磨子 | +――女 高橋家嫁
*=竹冠に均
2代本兵衛の代に大谷村庄屋となっています。3代光右衛門以正は17才で庄屋となり、50才で大庄屋に任命されています。晩年は、領主の役所(蒔田藩)に近い賀陽郡井手村(総社市)で暮らし、ここで死去しています。この人は和算家として有名で、吉備津神社(岡山市)と総社宮(総社市)に算額が奉納されています。光右衛門の妻は下道郡箭田村の土師氏ですが、この人の早世後、備前国児島郡柳田村の笹井家から後妻を迎えています。この笹井家は柳田村の大庄屋篠井家と同じ家か、あるいはその分家と思われます。
光右衛門の跡は四右衛門必正が継いでいますが、必正姉柳は窪屋郡中洲村中島の三島寿太郎に嫁ぎ、弟嘉次太、妹伸、同登幾は浅口郡地頭村の塚村家に入っています。必正の妻は児島郡彦崎村の下野家からきています。
必正の跡は、慎一郎、達郎、鐵之助と続いています。達郎妻は吉備郡穂井田村の三宅氏です。鐵之助氏は産婦人科医でしたが、画家としても有名な方でした。
金光町大谷には金光教の総本山があるところです。教祖は光右衛門以正に13、14才頃に読み書き算盤などを教わったそうで、現在、小野家の旧宅跡は金光教の管理となっています。
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