紀国屋小野家
窪屋郡倉敷村
宮崎屋井上家と共に、今の倉敷(美観地区)に現存する数少ない古株(古禄)の家です。初代左衛門四郎好雄は慶長13(1598)年に倉敷村庄屋になり、以後新禄古禄の争いでその座を奪われるまで長期に渡って村政のトップの座にありました。
今のアイビースクエアの場所は倉敷紡績所の跡地ですが、倉紡(クラボウ)の前には、幕府が置いた倉敷代官所がありました。そのまた昔は、「城の内」と呼ばれた地域でした。ここには小高い丘があり、城山と呼ばれ、戦国時代には「小野ヶ城」という砦がありました。明応2(1493)年に小野好信という城主が、京都伏見稲荷を勧請しています(城山稲荷)。これが後に城山稲荷大明神として倉敷村の人々に祀られました。この稲荷は倉紡が出来たときに一旦、向市場に移転されますが、後にまた元の場所に戻されています。現在のフローラルコートの前のお稲荷さんがこれです。
こういう歴史があるので、小野家は倉敷村の場所に戦国時代から陣取って偉そうにしていた戦国武将であり、徳川の世になって、自分の屋敷を代官所として差し出して、代わりに庄屋という地位をもらって妙見山の麓の場所に移住したのではないかと思われます。もともと、この付近は海で、城山も妙見山も海に浮かんだ小島でしたから、小野家の先祖は海を舞台に活躍した武将ということになるでしょうが、いったいその前が何処から来たものかは不明です。
4代正成の死後数年間は、家付きの娘になる妻宰(さい)が庄屋を勤めたこともあったようで、「おさい庄屋」と呼ばれました。男尊女卑の時代にあっても、決してか弱い女性ばかりではなかったようです(笑)。いまの倉敷本町郵便局のところから倉敷公民館の半分くらいの場所が小野家の敷地であったようです(宝永の頃)。倉敷の町のど真ん中でも、「郵便局は庄屋の跡」という家系図や郷土史調べに大いに参考になる原則が通用するようです。
左衛門四郎好雄――+――又兵衛――女 原田源右衛門妻 寛永2 | 寛永11 | +――助右衛門==孫太夫正成――+――七太夫調意――女 藤井規英妻 正保2 原田氏 | 元禄10 延宝7 | 室大島氏 室家女 | +――助右衛門露堂 | 分家野田屋後宗家を嗣 | 享保13 | 室井上氏 | +――万右衛門世隆 | 二日市村平松家嗣 | +――女 同郡浜村屋葺家嫁 | +――女 浅口郡舟尾村三国屋小野家嫁 | +――孫太夫正直――+――猪右衛門君明――――+ | 享保20 | 元文3 | | 室阿部氏 | 室藤井氏 | | | | +――女 +――女 野田屋小野家 | 田辺屋小野家 | | +――三吉 原田家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――安右衛門 原田家嗣 | +――又兵衛正慶==孫太夫季顕――+――四郎右衛門顕允 宝暦5 原田氏 | 天保8 室豊福氏 寛政11 | 室平松氏 室平田氏 +――義蔵顕光 原田家嗣 | +――女 岡山古京小西屋嫁 | +――七太夫顕世――+――丹右衛門顕篤――蔚顕宗――+ 安政6 | 明治4 明治44 | 室大塚氏 | 室栗原氏 室平田氏 | 室飯田氏 | | +――駒子 | | 武田敦信妻 | | | +――女 | 飯田辰之助妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――雅彦 | +――將 | +――義臣 昭和3 室河本氏
上記のように、宮崎屋井上家と違い、なんとか血脈は保たれているようです。七太夫調意の妻は大島屋3代大島次郎右衛門の娘で、跡を継いだ末弟孫太夫正直の妻の母の姪になるようです。孫太夫季顕は又兵衛正慶の兄安右衛門の子です。季顕の妻は讃岐国大野原村平田藤左衛門の娘で、宮崎屋井上永美妻、及び油屋吉田永香妻とは従姉妹になります。蔚から3代、阿知神社の神官を勤めています。義臣の妻は倉敷市児島下の町にある鴻八幡宮の祠官河本家から来ています。
正徳元年の宗門帳には、
高176石7斗6升6合6夕
孫太夫 37歳 浄土宗誓願寺 印
男子 十六郎 10歳 右同寺 印
三吉 3歳 右同寺 印
女子 はん 6歳 右同寺 印
弟茂四郎 16歳 右同寺 印
(中略)
人数合14人内 男8人
女6人 孫太夫 印(正隼)
外に
兄万右衛門 42歳
是は戸川五左衛門様御知行所備中国窪屋郡帯江村七太夫方へ22年以前養子遣し申候
姉さき 48歳
是は青山下野守様様御知行所備中浅口郡舟尾村勘太夫方へ33年以前縁付遣し申候
孫太夫というのは孫太夫正直のことで、その妻阿部氏は宝永5年に亡くなっているのでここにはありません。「はん」という娘は後に分家野田屋に嫁いでいます。嫁に行く前はこのように名前が記されていますが、嫁に行くとただの「女房」とか「嫁」というふうにしか記されません。宝永7年の倉敷村住宅地図を見渡すと、孫太夫の家だけは、紀国屋という屋号があるにも関わらず屋号も姓も付いていません。正徳元年の宗門帳でも家族構成員の各人の下に寺印が押され、他家に出ている元の家族の記述も入念です。多くの宗門帳を見てはいませんが、おおかた宗門帳の最後に出てくるのがその村の責任者(=庄屋)のようです。
野田屋 助右衛門――+――祐右衛門俊雄 | 享保6 | +――十郎右衛門貫雄――祐右衛門民雄 | 元文2 宝暦4 | 室吉田氏 室庄屋小野氏 | +――権左衛門両雄 | 分家田辺屋 | 宝暦3 | 室庄屋小野氏 | +――七左衛門 | 天城村倉敷屋嗣 | +――武助 岡山浜田屋嗣
正徳元年の宗門帳には、
高58石1斗4升3合
祐右衛門 32歳 浄土宗誓願寺 印
男子 定吉 7歳
弟茂吉 15歳
父露堂 54歳
母 51歳
(中略)
人数合10人内 男7人
女3人 祐右衛門 印(貫雄)
外に
弟新四郎 25歳 天城村儀兵衛方へ4年以前養子
同武助 20歳 岡山橋本町伊兵衛方へ2年以前養子
分家の田辺屋は
高58石1斗1升6合
権左衛門 31歳 浄土宗誓願寺 印
女房 27歳 当村孫太夫妹11年以前縁付
女子 さき 9歳
(中略)
人数合7人内 男3人
女4人 権左衛門 印(両雄)
田辺屋は伊勢屋ともいい宝永2年に分家しています。わずか数年で本家の野田屋と同じ財産を持っているということは、野田屋の元の財、即ち宗家の庄屋孫太夫家の財がそうとう大きかったのではないかと思います。しかし、新禄古禄の争いの頃(寛政〜文政)になると、僅かに6石5斗、酒造株10石、借家20軒所有と没落しています。
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