葛原(矢田)家
備後国安那郡八尋村





重美匂當は三才の時に痘瘡のために両眼を失明、備中国小田郡大江村(笠岡市)のお菊を招いて箏曲を学びました。
上京して生田流琴師松野匂当の内弟子、箏曲教授となりました。
十六才の時から始めて七十一才になるまで代筆と平仮名木活字による日記を付けています。
その中には、出稽古に行った当時の豪農、豪商の家がたくさん記されています。

矢田
重義  ――太郎右衛門重常――太郎右衛門重善――太郎右衛門重得――二郎三郎重宗――二郎三郎重理――・     ――+
元和1   寛永16     寛文4      貞享4      享保1     享保2     天明7     |
室毛利氏  室矢田氏     室田中氏     室重政氏     室田中氏    室田中氏    室       |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――・    ――量兵衛重智――重知  ――+――匂當重美――+――光太郎正矩
   宝暦2    文化15   嘉永5   |  明治15  |  慶應3
          室      室田中氏  |  室田中氏  |
                       |        |  葛原
                       +――武八郎   +――二郎重倫 ――+――保重保
                          嘉永3   |  昭和11   |  明治37
                          室武田氏  |  室      |
                                |  室三宅氏   +――*重* ――+――丘
                                |            昭和36  |  昭和17
                                +――千歳        室龍治氏  |
                                   福田家嫁            +――守
                                                   |  昭和20
                                                   |
                                                   +――文
                                                   |  望月衛妻
                                                   |
                                                   +――通
                                                   |  三宅威妻
                                                   |
                                                   +==隆
                                                      大山氏
                                                      平成6
                                                      室*四女

*=草冠に幽(しげる)は童謡作家です。
重義夫婦の墓誌には「豊後国主大友宗麟男妻毛利氏」とあり、後月郡東江原村の田中氏先祖書と共通しています。
上系図の通り、後月郡下出部村の田中家と重縁があり、他三代の配偶者実家田中家も近隣大江村田中氏(これは下出部村田中家の分家)ではないかと思われます。東江原の田中家と下出部の田中家の系図も遠祖の部分が非常によく似ています。
現在の井原市から神辺町に及ぶ広い地域に田中氏は勢力を持ち、その一つの株家が九州大友氏に仕えて出世、大友氏滅亡後に先祖の土地に戻ってきたと考えられます。

窪屋郡三田村の槇山守屋家とその近隣に集まる守屋家の調査を行った時、
「うちは福山合戦のあと此処へ住み着いたと聞いています」
とか、
「うちは龍ノ口合戦のあと此処へ住み着いたと聞いています」
と云われ、
「ですから、他の守屋とは株が違うのです」
と聞いたことがありました。福山合戦と龍ノ口合戦は年代がかなりずれていますし、どうして多くの土地の中から三田村を選んで集まったのかは不思議ですが、すなおに元々守屋氏の地盤だったと考えると納得が出来ることに気付きました。
同一地域の同姓集落の成り立ちは、戦国時代よりもかなり遠い昔にさかのぼることもあると思われます。


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