三宅(児島)家
窪屋郡中洲村酒津
酒津の貯水池の東南の小高い丘(地元で小山と呼ばれている)の上に、この一帯に古くから定住した家の墓碑が林立しています。そして、その頂上付近は三宅、守屋という姓の墓地で占められ、次いで高橋、梶谷という家の墓地が多く認められます。梶谷家は清水家と縁戚関なので、それ以前から調べていました。濱の実家の墓地が小山の北側の中腹にあるのに対して、その本家の墓地は小山の東南の裾に整然と集められています。これは、梶谷家のルーツが同じ酒津でも、西酒津という、高梁川の改修工事によって今では川底になっている場所であり、改修工事によって、墓地も移転されたためです。濱の実家は江戸中期に西酒津の本家から分かれて、東酒津に分家していて墓地もその頃造られたようです。
従って、小山の山頂付近の広い範囲に墓地を持っている三宅、守屋という一族が東酒津に江戸初期から住んでいた一族だろうと想像できます。
それでは、その小山の大将の三宅さんの墓地を調べてみると、墓石の古さ、墓地の位置、墓碑に刻まれた年代と戒名などで、その本流らしい家の墓地がすぐに判ります。
本家の墓地に建つ墓碑に、元禄14、享保14という夫婦の戒名が彫ってありますが、俗名は不明です。それ以前の墓碑は不明ですが、新しい累代墓に刻まれた碑文に、
「佐々木盛綱7代孫高徳、児島三郎11代孫児島内蔵介定信は信長と覇を争い、その後蒲生氏郷に仕えた(天正11年死去、51歳)。この後に三宅と名乗って酒津村に居住。三宅甚右衛門尉定徳の15代の孫三宅庄左衛門高行、文政3年3月児島七郎右衛門堅隆が児島と改姓する」
とあり、33代になるという光太郎の名が刻んであります。
○○行空(元禄14歿)、○○浄然(享保6)という俗名不明の墓碑に続いて、下記のような流れになっていると思われます。・・・部分は想像による部分です。
三宅 七郎右衛門――+――七郎右衛門――+――民治政俊 尋信 | 義憲 | 加藤政陽の養子 安永7 | 寛政3 | | | +――女 +――女 ・ 加藤政陽妻 ‖ ・ +――――――正蔵 ――+――常 ・ ‖ 慶應3 | 高畠孝敏妻 ・ 貞兵衛重治 室安延氏 | ・ 下野氏 +――良三 ――文吉 ・ 嘉永4 | 明治12 昭和12 ・ ‖ | 室土屋氏 ・ ‖ | ・ ‖ +――純次 ・ ‖ 羽栗家の養子 ・ +―――虎蔵 ・ ‖ 太田家嗣 ・ 遠藤氏 ・ ・ 児島改姓 +――荘左衛門―――+・・荘左衛門・・+――七郎右衛門――徳平治――輝太郎――光太郎 ――+――達夫 知弘 | 知政 | 堅隆 高重 明治27 昭和59 | 平成5 文政4 | 文政12 | 天保15 明治16 室真安氏 | | | 室片岡氏 +――男 | | +――女 長興妻 +――荘左衛門――女 片岡経雄妻 知正 天保13
この家は代々酒津村の年寄役をつとめていました。徳平治高重は維新前には年寄、維新後は副戸長、戸長を勤めていますが、酒津村から軽部村に通じる道路の改修や八王寺と水江両村を結ぶ橋の建設などに私費も投じて多大な尽力をしています。
藤四郎知義――恵助重喜==弥平太長興――+――弥平太惟逸==弥平太直方――+――女 塚村高信妻 安永7 文政13 天保14 | 文久1 塚村氏 | 室知弘娘 | 室難波氏 明治41 +――璋平―――+――女 | 室惟逸娘 大正9 | 水澤郁太郎妻 +――女 室難波氏 | 難波吉興妻 +――道治 昭和31
藤四郎知義の墓碑は本家の墓域にあり、恵助以降は分家の墓域として区画された中に建てられています。この他にも、佐々木とか和田といった姓を彫った墓碑もあり、児島高徳の一族であることをいろんな形で示しながら、自己表現をしたものだろうと思いますが、這いずり回りながら墓碑を調べるものにとってはたいへんです。
璋平夫婦の墓碑は大きな位牌形の石塔ですが、この家は油三宅と云われています。
油三宅の墓地から下を見おろすと、たいへん立派な(派手な)墓碑が立ち並んだ墓地に目が止まります。この墓碑のほとんどに三宅という姓が彫られていて、1つ1つ丁寧に見て行って次のような系図にまとめてみました。
観空休意――+――庄右衛門 享保2 | 宣重 | 延享4 | +――庄左衛門――伝右衛門――+――伝右衛門――+――伝右衛門 ――熊太義直――+――竹太郎義之――+ 宝暦2 義基 | 義尚 | 義普 明治25 | 大正14 | 明和8 | 文政5 | 嘉永5 | 室渡邊氏 | | | | | +――女 +――左中義行 +――女 | | 片岡経嵩妻 | 安政3 三宅禮介妻 | | | | +――女 +――女 片岡経俊妻 | 三島吉次妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――庄太郎 | 昭和31 | +――慎次郎重義 | 安井家へ | +――保治 | 大正7 | 室丸川氏 | +――里野 | 安原愛助妻 | +――久美 安原愛助妻
庄太郎の墓碑には10代と刻んであります。ご子孫にお聞きしたところ、もともと西酒津にあった墓碑を、川の改修工事によって、いまの場所に移転したということのようです。
上記の系図を構成する墓地と同じ区域内に
染次光栄、明治18年歿 室守安長年娘
という墓碑があり、上記の系図とどのように繋がるのか不明ですが、この染次というのが、都窪郡誌で徳川末期の酒津村庄屋並びに明治維新以後の戸長として挙げられている三宅染次と一致するようです。当時の村の年寄役には、児島徳平治、梶谷野右衛門の2名が並んでいます。染次の姉妹は油三宅の弥平太直方の後妻となっているようです。株家同士の縁組みはよく見られますので、逆にそういう縁組みから株家かどうかを判断することも可能です。
一番古い墓碑「○○休意信士」の俗名は明かではありませんが、本家の最も古い墓碑に彫られている「○○行空」という戒名と2文字の共通項がありますから、この2家がお互いに本家分家の関係にあるのだろうと想像できます。
下記は庄屋を勤めた分家です。
忠右衛門重譽――+――男 享保13 | 室 +――藤十郎重與――+――茂輿 寛政9 | 福武光重妻 室 | +――二男 | +――染次光平 ――+――啓之介 天保5 | 文化13 室佐野氏 | +――具羅 | 溝手吉健妻 | +――治郎助光弘――+――染次光栄 ――久太郎光正 明治18 | 明治18 室佐藤氏 | 室守安氏 | +――峯 三宅直方妻
備中村鑑に
御料所 御陣屋倉敷 御代官大竹左馬太郎様
七百八十石二斗二升七合 酒津村 年寄 三宅染次
とあるのはこの家のことです。
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