溝手家
都宇郡早島村小浜
初代弥左衛門吉房が江戸初期に早島村に移住して一家を立てたのにはじまります。吉房妻の実家は不明ですが、賀陽郡溝手村(総社市)の人とありますので、吉房の出所もその付近と思われます。
平成十四年秋に岡山市吉(よし)の中尾家を調べた時、最後に残ったおばあさんが奥のカナヤの溝手さん宅に引き取られたという話を聞き、電話帳と住宅地図で確認すると、山間部の過疎地でありながら異常に溝手姓が集中している事を知って驚きました。早島溝手一族のルーツも岡山市吉の金屋地区かも知れません。
延宝七(1679)年、二代仁右衛門の代には前潟兼帯年寄に任命されていますので、この頃には上層農民となっていたと思われます。これ以後、代々年寄役を勤め、五代吉憲、六代憲胤の代には八ヶ郷用水の管理役を兼務し、寛政九(1797)年には苗字帯刀御免となり扶持米をもらっています。
明治になると、十代保太郎憲徳は貴族院多額納税者議員互選人となり、大正十二年には貴族院議員に選ばれています。明治四十三年、日韓併合が行われると、翌年には朝鮮に牧場をつくり、大正四年には百五十町歩を持つ植民地地主に成長しています。
弥左衛門吉房――+――仁右衛門吉徳 ――+――九郎左衛門吉久―――+――弥三郎 万治2 | 元禄8 | 享保2 | 宝永1 室 | 室大橋氏 | 室大橋氏 | | | +――甚兵衛 +――女 +――重右衛門吉清 | 楠戸家嗣 | 吉田宇右衛門妻 | 分家 | | | +――仁右衛門 +――三郎右衛門 +――七右衛門吉峯 | 宮崎村分家 | 分家 | 西新田分家 | | | +――九兵衛 +――おと松 +――おこう | 分家京都備後屋 楠戸甚右衛門妻 | 永瀬茂平妻 | | +――権十郎 +――おつる | 分家新屋敷 | 高橋長太夫妻 | | +――九郎右衛門吉宝――+――九郎兵衛吉憲――+ +――おまつ | 明和6 | 安永8 | 難波太左衛門妻 | 室大橋氏 | 室間野氏 | | 室瓜生氏 | | | +――おすな | +――お里ん | 陶山又市妻 | 難波家嫁 | | +――九兵衛 | | 京都備後屋嗣 | | | +――九平治吉方 | | 分家新宅 | | | +――平九郎 | | 金田村分家 | | | +――於ま里 | | 滝本屋嫁 | | | +――お三輪 | | 伝九郎妻 | | | +――喜兵衛 | 吉方跡嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――九郎兵衛憲胤――+――源之助憲政 | 文化8 | 寛政8 | 室三垣氏 | | +――於ぬい +――房次郎厚胤 | 三垣家嫁 | 安永3 | | +==九郎兵衛憲成――+――九七郎憲章――+――正太郎 +――於里 中藤氏 | 明治4 | 天保8 | 明和6 文政9 | 室福武氏 | | 室憲胤次女 | +――於多喜 +――於多美 +――加那 | 天保10 齋藤平三郎妻 伊木転妻 | +――於弥世 | 天保11 | +――於加弥 | 嘉永1 | +――安代 | 川手久憲妻 | +――雄之輔憲雄==保太郎憲徳――+ | 明治24 憲栄長男 | | 室大森氏 昭和8 | | 室揚氏 | +――直次郎憲栄 | | 明治11 | | 室福武氏 | | | +――磐代 | 福武元貞妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +―― 一雄 | 昭和58 | 室星島氏 | +――倶子 | 門脇季光妻 | +――武夫 | 室坂田氏 | +――恒子 | 池田三郎妻 | 後離縁 | +――勝子 | 小早川充郎妻 | +――敦子 | 田中弘妻 | +――慶子 浜岡敦妻
二代仁右衛門吉徳妻(重三郎娘)、三代九郎左衛門吉久妻(兵右衛門娘)、四代九郎右衛門吉宝の妻(長右衛門娘)が何れも呑海寺大橋氏となっています。呑海寺(どんかいじ)は早島の東隣に接する箕島内にある小字で、呑海寺という日蓮宗(もとは禅宗)の寺の名を地名に卸した所です。岡山市富原の大庄屋土岐家に箕島村大橋家から嫁いでいる人がありますし、備中村鑑にも箕島村庄屋として大橋寿一郎(正しくは寿次郎)の名が見られますので、呑海寺大橋氏の消息を訪ねてみました。享保、元禄時代に遡るほどの古いお墓を祀る家は今のところ見つかりませんが、箕島の正福寺で古い墓碑を祀る大橋家を見つけました。正福寺の大橋家は箕島字砂場の大橋家で、呑海寺大橋家の方が歴史が古いのではないかとのことでした。
いずれにしても、溝手、大橋家の間の信頼関係は普通ではないようで、同株異姓ともいえるかも知れません。
吉房長女は粒江村吉田宇右衛門へ、次女おと松は羽島村楠戸甚右衛門へ嫁ぎ、吉徳の弟三郎右衛門は分家しています。この三郎右衛門の跡は未だ追いかけていません。
吉徳の次男重右衛門吉清は村内前潟に分家、三男七右衛門吉峯は西新田(後の西田村)へ分家しています。吉徳の長女「おこう」は中帯江村の永瀬茂平へ、次女「おつる」は撫川村の高橋長太夫へ、三女「おまつ」は下撫川の難波太左衛門へ嫁いでいます。
吉久の次男甚兵衛は羽島村楠戸甚左衛門の養子となり、三男仁右衛門は宮崎村へ分家、四男九兵衛は京都に住んで備後屋の祖となりました。五男権十郎は村内に分家して新屋敷と称します。六男九郎右衛門吉宝が親の跡を嗣いで、季女お里んは撫川難波家へ嫁ぎました。
吉宝の妻「おまつ」は享保四年に若くして亡くなり、早島村長津の瓜生茂一兵衛妹於梅が後妻に入っています。
九郎兵衛吉憲の妻津宇は都宇郡新庄村の間野七右衛門娘です。
吉宝の長女「おすな」は賀陽郡美袋村陶山又市義房の妻となり理與と改名しています。吉憲と「おすな」の生母が大橋氏です。
吉宝の次男九兵衛は京都備後屋の跡を嗣ぎ、三男九平治吉方は村内に分家して新宅と称します。四男平九郎好栄は金田村へ分家、三女「於ま里」は岡山滝本屋へ、四女「お三輪」は藤京屋伝九郎へ嫁いでいます。季男喜兵衛は兄九平治の跡を嗣いでいます。
九郎兵衛憲胤の妻賀那は都宇郡新庄村の三垣紋兵衛娘です。実母が同じ新庄村の庄屋間野家から来ていますので、その縁故の縁組みであったと思います。また、憲胤の娘「於ぬい」が都宇郡新庄村三垣家へ嫁ぎ、享和四年二月九日に亡くなったとあります。間野家を調査した時に気に掛けて村内の墓地を巡ってみましたが、墓碑を同定することは出来ませんでした。
吉憲の次女「於多美」は津高郡辛川村の斎藤平三郎へ嫁いでいます。
九郎兵衛憲成は浅口郡勇崎村の中藤理三郎清史次男で、憲胤次女都宇(嘉永三年歿年六十二)の婿養子となって入家しています。中藤(なかとう)家の墓地に、
「憲成之墓 文政九年十二月八日」
という墓碑が建てられています。
憲章の妹加那は備前藩家老伊木長門の老臣伊木転に嫁いでいます。
憲章の四女安代は浅口郡大谷村の庄屋川手幸次郎久憲へ嫁いでいます。川手久憲は慶應二年に二十八才で早世していて(1866-28=1838)、その墓誌に「父元俊母中藤氏娶溝手氏挙男元亨女松枝」とありますが、妻溝手氏の墓碑が見あたりません。夫早世の後に他家に再縁したと思われますが、溝手家の系図にはそれについて記載がありません。
憲章の跡は次男九郎平(雄之輔)憲雄が嗣ぎました(明治二十四年歿年四十六 1891-46=1845)。妻は上道郡高島村大森氏ですが、憲雄の墓誌に「数年而復籍無子」とあります。
ここで少し興味深い資料があります。
清水多喜野が語った岡山市今在家大森家の縁合に、揚小三郎娘というのが出ています。今在家大森家のご子孫にも問い合わせましたが揚家との関係はよく判りません。どうもこの溝手家の縁合と混乱して語っているように思います。香川県木田郡古高松村の揚小三郎娘政(母千万)は子のいなかった憲雄の跡を嗣いだ甥保太郎憲徳妻となっています。
大森馬之(1859−)の長姉梅野((1905-53=1852))は友沢清範に嫁いだことが判っていますが、次姉「おつぎ」は神坂家に嫁いだことしか判らないので、この「おつぎ」が神坂家に再縁する前に溝手憲雄に嫁いだ可能性があると思います。
憲雄の弟直次郎憲栄も明治十一年に三十一才で亡くなり、その妻「於秀(小田郡横谷村福武季禮長女)」も一男子保太郎憲徳を生んで、明治十四年に二十四才の若さで亡くなっています。
憲雄の妹磐代は小田郡横谷村福武豊太郎へ嫁いでいます。
中藤、川手、福武の三家は古くから重縁があり、六代憲成が養子に迎えられた辺りから、その輪の中に溝手家が入ったように見ることもできます。
保太郎長男一雄の妻房は倉敷市藤戸の星島義兵衛娘です。
俔子は松江市の門脇季光へ、恒子は大阪市の池田三郎へ嫁いだ後に離縁、勝子は広島県豊田郡川源村の小早川充郎へ、敦子は兵庫県三原郡賀集村の田中弘へ、慶子は京都市上京区下長者町の浜岡敦へ嫁いでいます。保太郎次男武夫は分家して、東京の坂田愉三郎娘を妻に迎えています。
写真墓碑列の南向かいには幼くして、若くして亡くなった当主の子や、縁戚関係の人の墓碑が建っているようです。詳しく見ていませんが、「内藤彦右衛門二女・・・」という墓碑が目に留まりました。どうやら柳井原の内藤家とも縁戚になるようです。溝手家系図には内藤家に嫁いだ人、内藤家から来た人の記載がありませんから、公表系図も完璧なものではない可能性があります。
しかし、憲成が婿養子でその長男憲章(1871-56=1815)、及び長女加那(1840-20=1820)と田邉和右衛門義雄(1881-88=1793)の生存年代を並べてみると、義雄の実家でである可能性はないと思われます。
大溝手家には多くの分家があります。村方役人などを勤めていた家は、お上の法令(分地制限令)を厳守し、世間的体面を気にしたために、江戸時代にはあまり多くの分家を立てていません
しかし、溝手家は村役人中枢に居座ることもなかったためか、大した財産分与もしないで分家をさせたそうです。子孫に美田を残さずと云いますが、大溝手のこういう考え方は結果的に足腰の強い分家を育てました。
吉宝の三男(母瓜生氏)は分家して新宅と称しました。本家の墓地と塀を隔てて西に墓地があります。
九平治吉方==喜兵衛暁在――九平治吉在――+――儀三郎 寛政8 吉方季弟 天保3 | 弘化4 室三宅氏 文政12 室 | 室溝手氏 +――九平治――由久 明治2 安政4 室
吉方の妻「なか」は三宅佐治右衛門娘、その跡は末弟の喜兵衛が相続しています。暁在の妻は溝手仁右衛門娘とありますから、宮崎村分家三代の娘ではないでしょうか。儀三郎はその生歿年から吉在の子と思われ、「四代目九平治娘由久」という墓碑と明治二年に亡くなった九平治の墓があることから上記のようにつないでみました。どうやら絶家して祭祀が本家に引き継がれているようです。
権十郎は村内に分家して新屋敷と称します。本家の東隣に塀を隔てて墓地を構えています(上写真)。
そのあとを墓碑で追うと、
権十郎 ――権十郎吉久――権十郎吉國――+――彌左衛門吉信――+――正助吉雅 宝暦11 安永7 寛政9 | 天保4 | 文政6 室溝手氏 室溝手氏 室味野氏 | 室小田氏 | | +==慶左衛門訓章――+――於百 +――岩秀 亀山氏 | 慶應4 寛政8 元治2 | 室吉信娘 +――虎助 元治1
初代の妻は西新田分家の吉峯娘、二代吉久妻は西新田又分家善六(郎)娘です。
吉國妻勝は味野助左衛門娘です。おそらく児島黒石の味野氏と思います。寛政三年歿の助左衛門という人の墓碑を確認しています。
彌左衛門吉信の妻津留は窪屋郡二子村の小田與次右衛門正光次女です。
慶左衛門訓章は亀山家から溝手家を嗣ぎに入った人で、妻順は吉信の娘です。
「**院妙貞信女 慶左衛門付添秀大坂人明治十九年歿年六十三」
という墓碑があります。
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