溝手家
都宇郡早島村宮崎





早島村小浜の大溝手家三代九郎左衛門吉久の三男仁右衛門は宮崎村(早島町宮崎)に分家しています。

仁右衛門――+――仁右衛門吉忠――+――仁右衛門吉重
延享2   |  明和9     |  分家
室若林氏  |  室       |
      |          +――七五郎   ――徳之助――忠三郎吉唯――仲
      +――喜八      |  文政2     文政1  嘉永5    明治22
      |  備後屋嗣    |  室       室    室
      |          |
      +――文五郎     +――女
         備後屋嗣    |  溝手暁在妻
                 |
                 +――利喜
                    溝手勝九郎妻

墓地には溝手家三代九郎左衛門(吉久)夫婦からの墓碑が建てられています。俗名が刻まれていませんが、本家の系図、墓碑との照合で確認できました。初代も通称仁右衛門のみで諱は刻まれていませんが、歿年と墓碑の位置などからほぼ間違いないと思います。妻は宝暦七年歿の**浄法信女、俗名、出所などは不明です。

二代仁右衛門吉忠は**浄雲信士、妻はその傍らの**妙桃信女(文化四年歿)ではないかと思われます。
新宅の二代喜兵衛暁在の妻が「溝手仁右衛門娘」とあるので、新宅初代(喜兵衛の兄、1796-69=1727)、三代(1832-58=1774)と仁右衛門吉重(1821-84=1737)の生存年代を比較して、吉忠の娘ではないかと考えました。

吉重妻は「中島村若林氏女縫」とあり、中島村の庄屋若林與八郎恭都妻梶(又右衛門光嘉娘)の生存年代(1829-79=1750)、同じく又右衛門光嘉娘で左一郎正豊(寛政五年歿)に嫁いで安永七(1778)年に亡くなった女性があり、その長男佐一郎(天保六年七月五日歿年七十四1835-74=1761)の生存年代を考慮して、原正豊、若林梶の姉妹と考えました。中島に若林姓は何軒かありますが、当時の溝手家と縁組みをする可能性のある家はおそらく他になかったと思いますし、次代正右衛門吉信妻が児島郡上村鎌田氏とあり、上村庄屋鎌田家と原家の重縁からも裏付けられると思います。

正右衛門吉信は、倉敷市史に拠ると、羽島村庄屋を兼帯していたようです。妻三木は天保九年に六十九才でなくなっています(1838-69=1769)。上記若林家と同様に、この鎌田家は上村庄屋と思われ、十郎右衛門正房(1841-76=1765)とその妹で原世之へ嫁いだ竹(安政三年歿年七十九 1856-79=1777)との生存年代比較により、三木も正房の妹ではないかと思います。

岩太郎吉健の妻具羅(くら)は古水江村三宅氏女とあり、文政八年に二十八才才の若さで死去しています(1825-28=1797)。伝右衛門を襲名している三宅家の分家で庄屋を勤めていた家で、具羅は染次光平長男啓之介(1816-21=1795)、光平次男治郎助光弘(1849-46=1803)兄弟の間の女子ではないかと思います。

児島吹上の昆陽野家墓地に
「塩生村能勢嘉源次次男古谷野新三郎妻雪 早島村字宮崎溝手岩太郎長女 明治二十三年歿 **妙慧大姉」
という墓碑があります。

慎吾吉輝の妻「そよ」は児島郡郡邑(岡山市郡)の北窓氏娘で、明治二十二年に六十八才で亡くなっています。
真七の妻「みつ」は名越三郎治の長女で、明治元年に嫁いだということだけ刻まれています。
諸平は真七長男で、妻「マキ」は名越勝造娘とあり、三郎治、勝造は同じ株家の人に違いありません。「マキ」は明治三十五年に二十五才の若さで亡くなり、諸平は後妻美津与を迎えています。美津与は和気郡三石町の頓宮三季三の長女、頓宮家は備中矢掛猿掛山城主花房志摩守源正成後裔とあります。

昇は諸平長男で、昭和四十三年に六十九才で亡くなっていますから、生年を逆算すると「マキ」の子、諸平次男真は生年を逆算すると美津与の生んだ子ということが判ります。
昇の妻秀野は赤穂市塩屋の鷹羽岩太郎長女です。

早島の溝手一族は、総社市美袋の田邉和右衛門義雄の実家ではないかと考えて調査に着手しました。大溝手家から田邉家に嫁いだ人があるので、義雄の実家がこの一族である可能性が大きいと思われ、大溝手家と西田村溝手家の系図に義雄に該当する人がいないこと、吉屋にもそういう伝承がないことから、宮崎の溝手氏に絞られてくると思います。義雄は溝手氏より二十二歳で田邉家に養子に入り、明治十四年に八十八才で死去しています(1881-88=1793)。もしこの家が実家でしたら、岩太郎吉健(1867-78=1789)の弟になるのかも知れません。

仁右衛門吉重――正右衛門吉信――+――岩太郎吉健――+――慎吾吉輝   ――+――真七   ――+――諸平    ――+
文政4     文政10    |  慶応3    |  安政4      |  大正10   |  昭和4     |
若林氏    室鎌田氏    |  室三宅氏   |  室北窓氏     |  室名越氏   |  室名越氏    |
                |  室宮本氏   |           |         |  室頓宮氏    |
                |         +――雪        +――弥寿     |          |
                +――男         古谷野新三郎妻     中原信庸妻  +――芳       |
                   田邉家嗣?                           浅野弥一郎妻  |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――昇
|  昭和43
|  室鷹羽氏

+――真七
   昭和10

他にいくつかつながりの判らない墓碑があります。

安政五年歿 三宅後左衛門妻豊
元治二年歿 辻半三郎妻松
は合祀されていますし、歿年も近いので、年代からみて岩太郎吉健か慎吾吉輝の姉妹で、溝手家から嫁いだ姉妹と思われました。しかし、その後の調査で、占見新田村宮本新四郎良知の墓誌に「女三人長禮適備前郡辻半三郎次・適早島村溝手政太郎次多喜猶幼・・・萬延元年歿」と記されているのを確認しました。倉敷市史第八冊八三四頁に「宮崎村荘屋溝手政太郎又作岩太郎吉健 慶應二年歿七十八(備中村鑑)」とありますので、合祀墓は岩太郎吉健妻の姉妹、慎吾吉輝の伯母(叔母)にあたるようです。

天保四年歿 倉敷三木弥兵衛娘カツ
は岩太郎吉健の後妻でしょうか。

「霜雲自昌信士 文政十二年十一月十二日 江戸八代淵河岸嘉介」
という墓碑は、端の方に建てられて姓が刻まれていないので、もしかすると家業の取引先の人かも知れません。


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