水澤家・井筒屋
窪屋郡倉敷村
水澤家初代孫兵衛は元和年中に陸奥国水沢(岩手県)から倉敷に移住して来ています。一説には初代はキリシタンであったとも云われます。
戦国末期からキリスト教の宣教師たちが布教の餌に欧州の進んだ技術を紹介しました。当時、戦闘集団を率いて自分の領地を一所懸命(一生懸命)に守っていた武将たちは、土木治水技術を取り入れるためにキリスト教宣教師たちとの付き合いをしていた人が多かったようです。織田信長や太閤秀吉もそうですね。西日本には、元禄時代くらいまでの墓碑として「らんとう」という家型の墓碑が建てられていることが多いのですが、この家型墓の屋根の部分に十字架が彫られていることもあるようです。ただ、そういう墓をもつ家の先祖がみなキリシタンかというと、そうではなく、ただ技術がほしいからキリシタンと仲良くしていたのではないかと思います。
今の倉敷には、誓願寺にある墓地の他は水澤家を訪ねる材料は何も残っていませんが、近世後期の水澤家は倉敷では勿論、京阪神方面の長者と比べても決して引けを取らないほどの財力をもっていました。
孫兵衛久元――弥左衛門享次――+――五兵衛利三――太郎兵衛準利――+――ふで 元和3 慶安3 | 寛文7 寛文7 | 水澤善右衛門妻 室 | 室 室岡氏 | | +――太郎兵衛貞信――+――伊左衛門蔭貞――+ +――弥三右衛門 元禄9 | 宝暦11 | 分家大津屋 室間野氏 | 室林氏 | | 室亀山氏 | | 室岡氏 | | 室森井氏 | | | +――佐四郎 | | 寛保3 | | | +――藤九郎尹吉 | | 分家松屋 | | | +――いわ | | 岡山児島屋嫁 | | | +――法年 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――新治郎 | 分家二階屋 | +==真平光宣 | 分家清水屋 | +==伊左衛門殷満――伊左衛門隆恵――+――松野 天明3 文化8 | 水澤邦節妻 小倉氏 室景山氏 | 室尾崎氏 室加藤氏 +――伊左衛門邦綱――+――常太郎定穀――+――三保太郎定興 室水澤氏 | 文政7 | 弘化5 | 嘉永4 | 室並河氏 | 室並河氏 | | | +==太郎弘毅 ――+ +――女 +――女 仲村氏 | 平松與治妻 水澤邦光妻 大正4 | 室定穀次女 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――静枝 | 天野貞勝妻 | +――郁太郎 ――+――嘉寿彦 | 大正8 | 大正8 | 室三宅氏 | | +――成業 +――琴梅 | 昭和28 | 竹中真左紀妻 | 室 | | +――ゆきえ +――清久 | 藤正純妻 | 昭和49 | | 室 +――政子 | | 梶村正直妻 +――芳子 | | 麻生家嫁 +――辰太 | 松屋嗣後 +――汀子 加藤家へ | 四本家嫁 | +――清子 広瀬家嫁
正徳1年8月の倉敷村宗門帳によると、
持高 28石8斗7升3合2勺
太郎兵衛 28才 浄土宗 誓願寺
女房 28才 当村惣兵衛妹、10年以前縁付
男子惣次郎 7才
女子ちよ 9才
弟佐四郎 21才
弟藤九郎 17才
母 54才
(中略)
人数合14人 内男8人女6人 太郎兵衛 印(蔭貞)
妹いわ 33才 岡山児島町七兵衛方へ5年以前縁付
妹法年 27才 当村与兵衛方へ5年以前縁付
伯母ふで 45才 当村孫右衛門方へ27年以前縁付
同じ古禄の持高を挙げると、紀国屋小野家176石余、播磨屋原田家64石余、蔦屋岡家44石余、俵屋岡家30石余、銭屋岡家44石余、瀬尾屋藤井家108石余、油屋吉田家63石余、宮崎屋井上家は31石余、大島屋大島家203石余、和泉屋岡家35石余。もちろん、これは土地に限った資産を比較しただけのものですが、当時の水澤家は古禄の中では決して大金持ちというわけではなかったようです。しかし、新禄古禄の争いの頃(寛政〜文政)には、井筒屋伊左衛門の石高は374石、酒造株100石、借家291軒と、備中第一の富豪となっています。ついでに記すと、新禄に分類されている広島屋林家は37石余、郡屋山川家は3石余となっています。
太郎兵衛蔭貞は伊左衛門とも云い、耆耋(きてつ)と号し、水澤家の家産を大きくした中興の祖です。一財産作ろうと、岡山で大坂行きの船待ちをしていたところ、居合わせた倉敷村の某氏に意見されて引き返し、1着の裃と1振りの木刀を残して家財を売り払い、それから一生懸命働いて銭儲けをしたそうです。一代にして大きな富を築いた裏には、人に恨まれるようなこともあったのでしょうか?家を新築するときに糞尿をかけられたり、3階蔵を建てるときにも葬式の旗を立てられたりしたこともあったそうです。しかし、耆耋は「肥よ太れよということか」「一旗揚げよということか」と云いながら相手にしなかったそうです。
耆耋は生涯に5人の妻を娶っていますが、子供には恵まれず、せっかく生まれた子供達も幼くして亡くなっています。同時代に親族として共に栄えた五三兵衛義明とそういう点でよく似ています。
7代伊左衛門殷満は児島郡天城村の大庄屋小倉四郎右衛門の次男で耆耋の養子になっています。この人は京都で死去し、墓は知恩院にあります。
9代邦綱は窮民救済と村政の立て直しに尽力したということで、文政4(1821)年に苗字帯刀御免となっています。この人は、文雅を愛し、文人墨客との交流が多かったそうです。頼山陽もしばしば倉敷村へやってきたようで、邦綱も浅口郡長尾村の坡南小野務の紹介で山陽に揮毫を依頼したそうですが、その謝礼が少ないと云うことで、山陽が務に不満の手紙を書いています。山陽は学者でありながら利にさとく、あちこちで非難を受けています。
10代定穀は倉敷村にはじめて庄屋公選制が実施されたときに、新禄代表の植田方清とともに庄屋に選ばれています。弘毅は河内国富田林の仲村家から入婿していますが、時勢の流れに勝てず、明治26年、倉敷を離れることとなりました。屋敷のあとは、明治24年から創業した倉敷銀行(いまの中国銀行)によって買い取られました(中国銀行倉敷本町支店)。北には古禄の小野家(庄屋:現在の倉敷文化センター)、南には同じく岡家(俵屋:現在の大原家別邸有隣荘)、ともに今では消えてなくなっています。誓願寺の一番高いところに水澤家の墓地があります。邸宅は中銀本町支店の東隣の裏に礎石だけ遺っています。観光というのは視線を上向きに歩くものでしょうが、倉敷美観地区の観光は下を向いて歩いてもそれなりに面白いものです。現在の倉敷民芸館展示室の土蔵、北田証券など、みな水澤家の所有であったと云います。
清水屋は児島郡粒江村の小川猪八の子を耆耋が養子として分家させたものです。初代光宣の妻は古禄の大島屋の娘、系譜は次のようになります。
真平光宣――+==真平孝成 ――+――改助孝盈 ――+――真平 文化10 | 嘉永6 | 元治1 | 明治16 室大島氏 | 室光宣娘 | 室水澤氏 | | | +――喜野 +――幾登 +――桂次郎義行 安原僊三妻 | 益田君寛妻 | 嘉永3 | | +――清蔵親詮 +――男 享和4 | 文化7 | +――梅 中原正年妻
真平の実家小川家は鞭木家の株家だと思いますが、その関係は判りません。
真平孝成は光宣長女倉の婿養子として入った人ですが実家は不明です。
幾登は益田讃蔵君寛へ嫁いでいます。讃蔵は本姓万代氏、備前片上の人で、初め池田家執事を務めていた福家氏の養子となりましたが故有って離縁となり、大坂、倉敷と移住して水澤家に寄寓しました。文政十年に六十五才で病歿しています。
孝盈の妻は松屋水澤邦節の娘です。
松屋は耆耋の弟藤九郎が分家したもので、本家の東隣に屋敷があったそうです。系譜は次のようになります。
分家上総屋 藤九郎尹吉――+==佐兵衛 明和4 | 室 | 天明1 室小野氏 | 室 | +――女 | 水澤殷満妻 | +――孫兵衛玄紹―――+――藤九郎邦節 ――+――栄之助邦光 ――午五郎邦勝――+ 文化4 | 文政11 | 天保14 明治19 | 室瀬尾氏 | 室水澤氏 | 室水澤氏 室羽倉氏 | | | | +――形子 +――増次郎邦耀 | 平松與盛妻夫歿後 | 天保5 | 河本道侃妻 | 室水澤氏 | | | +――女 | | 水澤孝盈妻 | | | +――女 | | 村上家嫁 | | | +――女 | 玉置忠左衛門妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――順太邦義 | 小倉家嗣 | +――慶次郎 ==辰太 | 明治20 水澤氏後 | 加藤家へ | +――街 小川十万太妻
藤九郎尹吉の妻は玉島淡路屋の娘、後妻久は舟尾村中屋小野氏とあります。柳屋小野市郎左衛門長明娘が同村中屋小野又左衛門則実妻とありますので、中屋は柳屋と同じ株になる家だろうと思います。
佐兵衛は藤九郎長女の婿養子となって分家上総屋を称しますが、松屋に同居しています。
孫兵衛玄紹の妻は玉島村大阪屋太兵衛娘とあるので、瀬尾氏だろうと思います。但し、太兵衛は不明です。
藤九郎(喜太郎、邦節、号可楽)の妻松野は井筒屋隆恵の長女です。
形子は二日市村平松家へ嫁いだ後に、岡山灰屋河本道侃に再嫁しています(文政二年歿年五十二)。
栄之助邦光は大津屋を嗣ぎに入った後に弟増次郎(伊作)邦耀が若くして亡くなったために復籍しています。妻は井筒屋邦綱娘で、四代邦耀の妻がそのまま五代邦光の妻となっています。
他に、清水屋孝盈と岡山藩村上家、津山玉置忠左衛門へ嫁いだ姉妹があります。玉置家に嫁いだ人は後に復籍しています。
午七郎(伊作、邦勝、号笙斉)は明治以後大阪へ移住し、明治十九年に五十八才で亡くなっています。妻英子は伏見の羽倉氏です。
順太邦義は、宗家七代伊左衛門殷満の実家になる天城村小倉家を嗣いでいます。
辰太は井筒屋遠三郎の三男で、松屋を継いでいますが、後に岡田村加藤三郎の分家を立てています。妻静は加藤次郎助次女(三郎妹)です。
分家大津屋
弥三右衛門好高――+――善右衛門――友右衛門――+――豊太郎 ==栄之助邦光 延宝6 | 宝暦3 寛延2 | 文化8 邦節男 室井上氏 | 室水澤氏 室大塚氏 | | 室安東氏 +――五右衛門 | | +――清右衛門 | 享保13 +――淳 井上家嫁
大津屋ははじめ山口屋と称しました。好高の妻「きく」は華屋井上新右衛門の長女です。
二代善右衛門(市太郎)妻は井筒屋準利の娘、後妻は岡山藩池田丹波守家臣安東氏娘です。作州安東家の系図に、宇喜多家、後に姫路池田輝政に仕えて岡山に移り、そのまま明治維新を迎えた安東平左衛門の子孫が記載されています。
友右衛門の妻は槌ケ原村大塚氏とあります。
栄之助邦光は松屋三代の子ですが、実家を嗣いだ弟の早世で復籍し、この時点で大津屋は絶家しました。
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