水内家・三村屋
児島郡福田古新田村





信州安部氏の流れで、もともと備前国岡山城下柿屋町に住んでいました。享保年中に福田新田が開発されたときに出資をしています(佐藤九郎兵衛が新田を質にして三村屋から借金をしている)。宝暦七年に引越願が出ています。四之割に大屋敷を構えていました。

某   ――某  ――彦五郎顕春==彦五郎勝泰――+――亀右衛門恭喜――+――彦五郎勝重==繁太郎勝譽――+
享保15  寛延2  享保18   坪井氏    |  安永9     |  天保11   土屋氏    |
室     室    室      文化1    |  室尾崎氏    |  室坪井氏          |
                  室水内氏   |          |                |
                         +――女       +――女             |
                         |  中村正摸妻   |                |
                         |          +――女             |
                         +――女                        |
                         |  田賀彦十郎妻                   |
                         |                           |
                         +――彦三郎恭孝                    |
                            坪井家嗣                     |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――男

+――勝之助勝正
   児島家嗣

天明四年三月に勝泰が建てた先祖の記念碑には、「祖先の墳墓は城西妙林寺山中にあるが、自分も老いて参るのが遠くなったので、義父母から曾祖父母までの石塔を此処に建てる」とあります。

勝泰は天明七年に藩府命で銀五十貫目を献上、これにより年に百五十苞の俸給をもらうことになりました。寛政十一年九月にも銀三十貫目を永納し、准大保正(大庄屋格)となり、俸十口の俸給をもらい、同年十二月に苗字帯刀を許可されています。

たいへん繁盛した家でしたが、その後家運は低迷、ついに勝重晩年には家屋諸道具も売り払い、田畑は残らず質に入るという状況になりました。そこで、勝重の死後も扶持は今まで通り頂戴出来ないかという嘆願書が、大庄屋永山善十郎から吉田勘左衛門、原田勝作に宛てて提出されています。勝重には子が無く、尾道の土屋恂子勝譽を嗣子に迎えています。

墓地には、
「塋域修理 昭和十八年十二月
 水内家外孫 横溝泰 横溝新 三木栄 宇野光子」
という記念碑が建てられ、絶家したあとの祭祀を親族が引き継いだようです。


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