丸川家
浅口郡西阿知村
西阿知村は岡山領と新見領に分かれています。もともとの西阿知は岡山領で岡家が代々庄屋を世襲し、丸川家は新田分新見領の庄屋を世襲しました。この新田分が記録に登場するのは、元和3年に成羽藩主山崎甲斐守の所領に加えられた時からです。三宅千秋氏は、その著書「倉敷の干拓」の中で、山崎領に加えられた当初から丸川家が庄屋を勤めていることから、この新田を開発したのは丸川氏ではないかと考察されています。生坂清水家に遺された数点の古文書、及び、もと成羽山崎家の江戸詰家老であった清水家に遺された系図から、丸川家が山崎家中の上級武士と親族関係にあったことは明らかですから、こういう人間関係も三宅氏の考察の裏付けになるかも知れません。
次郎右衛門――+――女 正保4 | 堀元幸妻 室 | +――源太夫 ――+==源太夫林宗――+――平次兵衛茂喬 ――兵衛茂行――+――源太兵衛茂雅――+ | 寛文2 | 守安氏 | 享保11 宝暦10 | 天明8 | | 室原田氏 | 享保11 | 室八木氏 室森脇氏 | 室富田氏 | | 室清水氏 | 室家女 | | | | | 室丸山氏 +――女 +――男 | +――女 | | 萱谷仁右衛門妻 享保19 | | 白神平助妻 +――女 | | | | 堀重長妻 +――女 | +――女 | | 藤井規英妻 | 元禄4 +――女 | | 中西武雅妻 +――女 | | 享保8 | | | | 分家 | +==文十郎重永 | | 萱谷氏 | | | +――松 | | 小野久蔭妻 | | | | 分家 | +――茂右衛門茂寿 | | | +――幾 | | 守安源左衛門妻 | | | +――加茂 | 尾崎家嫁 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +―― 一郎茂延――+――慎齋茂弘 天保8 | 文化14 室平田氏 | +――廉齋茂亮 ――+――義三茂義 ――+――斐太郎茂孝==誠 | 弘化4 | 明治1 | 南条氏 | 室 | 室土井氏 +――女 昭和40 | | | 室吉村氏 +――玖賀 +――笹 +――美登 | 宮崎勝豊妻 | 大島幸雄妻 南条彰妻 | | +==茂直 +――敬 若原氏 | 平田豪谷妻 室茂延次女 | +――数 | +――久美 | +――女
倉敷市西阿知の極楽寺の正門を入ると、すぐ左手に巨大な位牌型の墓碑が2枚建っています。これは丸川源太夫の祖父母の墓です。この家は源太夫さんが何人も居てたいへんややこしいのです。こういう時に、諱も一緒に判るととてもありがたいと思います。
極楽寺境内の墓地には丸川家の立派な墓碑が並んでいます。この中に、江州出身の山崎家臣清水彦右衛門の娘(寿貞尼)で、源太夫の妻となった人の墓碑もあります。清水家の書類によると、その跡を継いだ養子も源太夫を名乗っているということが判っています。
極楽寺の過去帳には源太夫祖父、源太夫父の記録がありますが、肝心の源太夫さんが記されていません。この家から出て浅口郡玉島阿賀崎新町で西阿知屋という商家になった分家の系図には初代は丸川源太夫林宗となっていて、窪屋郡山手村西郡の大庄屋守安家からの養子と書いてあります。
それで、墓碑を調べると、極楽寺と玉島円通寺裏の西阿知屋の墓地の両方に、それぞれ別の妻の墓碑と共に、この源太夫さんの墓碑が建っているのです。
つまり、極楽寺山門横の墓が初代源太夫でこの新田の開発者、彦右衛門の娘が嫁いだのが2代源太夫、3代の源太夫は養子であったということが判ります。更に、清水家資料では、寿貞尼は3代の源太夫の継母とあり、寿貞尼の実子(1人娘)は小田郡矢掛村の大庄屋中西家に嫁いでいるとありますので、2代の源太夫には2人の妻が居て、後妻が寿貞で、先妻の娘に迎えた養子が3代源太夫であったということが判ります。3代は家付の娘の婿養子として入って子供ももうけましたが、家女早世のために、後妻を迎えた。後妻にも子が出来て、これが玉島に分家した。最期は分家した子に引き取られて玉島で死去したのでしょう。
最後にもう一つ、倉敷市史に掲載された窪屋郡倉敷村の古禄瀬尾屋藤井家の系図に、西阿知丸川源太夫利慶の妻というのが載っています。年代を相互に合わせると、どうも2代の先妻らしいことが判ります。
捨てられたようなちいさなパズルの部品を丹念に拾い集めても、ちょっとした作品?が出来上がることが解りませんか?下手な推理小説よりおもしろいと思いませんか?これが系図調べの醍醐味です。
丸川松隠という漢学者はこの家から出ています。大坂の中井竹山に入門し、寛政4(1794)年には老中松平定信に召されましたが、辞退、新見藩の命で帰郷して、藩校の教授となって多くの子弟の教育に当たりました。その学統は、山田方谷、三島中洲と受け継がれています。そういうわけで、丸川本家はこの代から新見に移住します。松隠先生の墓碑は、極楽寺と新見の雲居寺(うんごうじ)の二箇所に建てられています。
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