守屋家・槇山
窪屋郡三田村



私の曾祖父(清水石太)の祖母(元)は窪屋郡三田村の守屋家から来ています。この家は槇山守屋と呼ばれて江戸時代に代々備前領大庄屋を勤めていました。

この家の位牌、過去帳などすべて戦災で失われました。墓碑や、郷土資料、他家に遺された史料を参考に系図を組み立てています。親族の植田吾一が守屋家の家系調査を郷土史家黒川清一に依頼しましたが、黒川は未完の草稿を遺して死去しています。

古文書に署名された三田村名主及び大庄屋の名を拾い出して一覧表に纏めたものが都窪郡誌にあります。元和に治左衛門、慶安に忠左衛門、承應に九左衛門、貞享に(守屋)権兵衛、宝永に(守屋)曾平、元文に(守屋)来右衛門、文化に(守屋)傳次兵衛、天保に(守屋)周右衛門(周左衛門の誤り)、弘化に(守屋)慎次郎、文久に(守屋)竹太郎、また、延享頃の大庄屋に守屋楢兵衛(権兵衛の誤り)とあります。実際の古文書をいくつか拾ってみると、
元和元年二月廿三日の備中酒津井手樋守給之事という文書(尾崎雅夫氏写)に三田村治右衛門
寛文七年の六間川堀鑿ニ付栗坂下庄撫川へノ定約書に三田忠左衛門の署名があります(澤所沿革史6頁)
当時、農業用水関係文書に村代表として署名しているのは名主でした。

後述の田島源五郎の墓碑に、守屋家の先祖は「某州の刺吏(某国の長官)但馬守」と記されています。田島源五郎の墓は三田春日八幡神社奥の共同墓地(寺屋敷)にあります。以下寺屋敷墓地と略します。
黒川は、以上のような材料を組み合わせて、但馬守→治左衛門(佐渡)→治左衛門尉(正保年中歿?)→忠左衛門直宗と並べたようです。

但馬守――治左衛門――治左衛門――忠左衛門直宗==権兵衛宗直――+――女
     寛永10  寛文12  元禄9     川上氏    |  石原義芬妻
           室高尾氏  室氏     享保5    |
                         室直宗娘   +――佐祐宇興
                                |  元文2
                                |  室田中氏
                                |
                                +――権兵衛充恭
                                |  寛延1
                                |  室
                                |
                                +――女
                                |  間野義明妻
                                |
                                +――来右衛門直好――+――圓右衛門江亀――+
                                   寛延2     |  天明1     |
                                   室土岐氏    |  室光畑氏    |
                                   室江崎氏    |          |
                                           +――忠右衛門    |
                                           |  岩崎家嗣    |
                                           |          |
                                           +――友之助     |
                                              土岐家嗣    |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――富右衛門充恭――+――周左衛門隆常――+==富治   ――卓爾  ――+――金造    ==禮三  ――+
|  享和4     |  天保4     |  守屋氏    明治9   |  大正13    塩見氏   |
|  室       |  室日枝氏    |  天保4    室三宅氏  |  室間野氏    昭和11  |
|          |          |  室隆常長女        |  室山川氏    室三谷氏  |
+――周右衛門    +――文兵衛     |               |  室塩見氏    室植田氏  |
   木村家嗣    |  天保15    +==慎次郎盛美        |                |
           |          |  原田氏          +――瀬牟            |
           +――理佐      |  明治4             守屋茂一郎妻        |
              高橋勝義妻   |  室隆常長女                         |
                      |  室俣野氏                          |
                      |                                |
                      +――元                             |
                         間野貞秀妻                         |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==正巳  ――+――*
   塩見氏   |  平成10
   平成9   |
   室田中氏  +――**

三田春日八幡神社前の参道入り口に崩れかけたらんとう墓と古墓が数基並べられています。その傍らに守屋金造からその所有地十四坪余を神社に寄進した旨の石碑が建てられています(大正四年)。これらの墓は初代、二代夫婦の墓碑に相当するのかも知れません。



三代以降の墓は観音堂にあります(以下観音堂墓地)。高松城の水攻めに押し寄せる武将の陣屋にするため、この場所に建っていた観音堂を戦場に移築し、その跡地が墓地になりました。

三代治左衛門夫婦の墓碑はほとんど磨耗した豊島石の石柱です。「顕妣高尾氏於八婦人墓、延宝二年、孝子忠左衛門」とあります。高尾氏は原津の古庄屋高尾氏かも知れません。この墓碑の近くに同型のやや小さな墓碑があり、ひどく摩耗していますが「守屋氏○○衛門墓、○○十二年」とあります。これが治左衛門の墓碑で歿年は寛文十二年と考えました。

四代忠左衛門直宗、五代権兵衛宗直とそれぞれの妻の墓碑はおとなの手でも抱えられないほどの太い石柱で造られています。
直宗の妻は墓碑に「岡助左衛門女才子」と刻まれています。
黒川が作成した系図に、倉敷村の蔦屋家二代助左衛門の娘が三田村守屋家に嫁ぐと書いてあります。
清水家の先祖利八郎の叔母が浅口郡西阿知村の庄屋岡助左衛門妻となっていますが、利八郎の祖母(石原文右衛門妻)と喜與の祖母(間野文左衛門妻)が共に同じ岡家(何処の岡家かは不明ですが蔦屋一統ではない)から来ていること、及び守屋家と間野(後に清水と改姓した間野を含む)家、石原家との重縁を考え併せると、守屋直宗妻は蔦屋岡氏ではなく、西阿知村の岡氏の可能性の方が強いと思います。

寛文十一年の備陽郡中手習所並小子之記という文書(岡山県史)によると、三田村の教師は庄屋忠左衛門、生徒の中に忠左衛門子五郎三郎(万治三年生)という子が記されています。五郎三郎は早世したのか分家したのか、忠左衛門は娘久也に川上家から婿養子を迎えて権兵衛宗直と名乗らせて跡を嗣がせています。宗直の墓碑には親子二代にわたって前潟開墾と用水の便を計ったと記されていますが、前潟という小字は三田にはないので、三田の集落の前に広がる湿地帯を水田に仕上げたと理解すれば良いと思います。

宝永五(1708)年の三田村百姓帳に家族構成が次のように記されています。

壱軒
一家内七人内男四人
      女三人      権兵衛
    内
 壱人    権兵衛    歳五十三
 壱人    女房     歳五十三
 壱人    子圓右衛門  歳三十二
 壱人    子丹助    歳二十六
 壱人    子佐市郎   歳 十八
 壱人    嫁      歳二十五
 壱人    孫ひさ    歳  五
  牛三疋

当主の権兵衛(宗直)は近郷の村々を束ねる大庄屋を勤めていました。百姓帳の末尾に「大庄屋 権兵衛」の署名と捺印(宗直)が確認されます。
隣の生坂村庄屋間野氏明長男友右衛門の墓前に「守屋佐一郎」が寄進した灯篭が建っています。また、友右衛門母は下道郡上原村川上氏という記録書類があるので、宗直の実家も同じ家と思います。吉備郡誌、神在村上原(備前領)の村役人に、延宝年中の日羽村札山済口証文に庄屋川上安右衛門の名があります。
百姓帳から判っている当時の家々で、近郷を含めても、農耕用の牛を三匹も所有している家は他にないようです。薮は合計三箇所、百五坪、山は合計六箇所、一町二反あります。三田村内では最大の資産家でした。

六代から九代までは、墓碑に刻まれた名は多くの郷土資料(古文書)で確認できますし、当主の戒名が「居士」その夫人が「清信女」という決まりが明治まで続いているようですので、系統図を作成するのは難しくないのですが、それぞれの妻の実家はどこか、それぞれの当主が養子なのか実子なのかということなど、よくわからないことがいっぱいあります。

直好の墓碑は笠の付いた立派な墓碑ですが、戒名や俗名を彫ってある石柱だけが天地逆になっています。この墓碑文は難読でした。こんな経験は珍しいのではないかと思います。
戒名が書いてある石柱には下に突起が作ってあって、これが土台石の穴にはまりこんで固定される(臍穴方式)ように作ってあります。傾いて倒れそうでも倒れないお墓の種明かしはこういう細工にあるのです。
しかし、この墓碑の場合は臍穴方式でなく、一度倒れた墓碑を上下逆に据えてしまったようです。平成十二年五月に墓碑を一箇所にまとめられた時にこのことが判りました。何か因縁めいた記述になりますが、この守屋家の墓碑は地震もないのに突然倒れることが何度もあったようです。

清水家に嫁いだ元には、美與という姉がいて、この姉が分家から婿養子を迎えて跡を継いでいるようですが、この分家についてはよく判りません。墓碑によると、元の母は山陽道川辺宿の日枝家から来ています。

明治三年の切支丹宗門改帳から、当時の守屋家の家族構成をみると、

  名主 四月十三日名主役御免五月六日里正役被仰付候
     十一月廿六日苗字御免被仰付候
一、卓二  印  歳四十四 
  妻   印  同四十二
  子金造 印  同十三
  娘せん 印  同八
  妹ひさ 印  同三十七
  役介人のぶ 印 同五十五
合六人内男弐人女四人 印 印

都窪郡早島町の栗坂家系図に、左五右衛門光國妻千勢は三田村守屋周左衛門姪(嘉永五年歿、享年七十七)と書いてあります。栗坂家は大佐藤家の番頭として新田の開発に従事したと云われます。

宗門帳にある役介人のぶ(野婦)とは、卓爾の義父慎次郎の後妻になります。慎次郎は浅口郡大島中村(笠岡市大島中)の原田家から美與の後夫として来ていますが、守屋家に入る前に後月郡青野村の三宅家の娘との間に娘が一人出来たようです。この娘を連れての入家で、後にこの娘を卓爾の妻としています。

卓爾(卓二)は後に家督を長男金造に譲り、かつて田島姓を名乗った家を再興しています。この家の姓は守屋家先祖の但馬守(タジマノカミ)から由来するもので、囲碁の名人だった田島源五郎邦美の墓碑には、守屋家の先祖は某州の刺吏であると書いてあります。
一般に、絶家した分家は無視されて祭祀を引き継ぐ者がなければ墓碑は無縁となりますが、絶家した本家は再興されます。田島守屋が槇山守屋の本家であるという言い伝えもあります。

金造の妻は清水貞基の長女松野ですが、これは二いとこ同士の結婚と云うことになります。守屋家の血脈を引いている嫁だからでしょうか、
「おばあさん(野婦)にはたいへん可愛がられたそうですが、器量が悪くて肝心の金造さんに嫌われて離縁となった」
というのは、松野が後に再縁した溝手家で聞いた話です。
金造の後妻は倉敷町山川房吉の長女ですが、早く亡くなったので、邑久郡鹿忍村の医師塩見文禮の長女イトを迎えています。三人の妻のいずれにも子が出来ず、とうとう三妻の実弟禮三が相続しました。この時、守屋家の血が絶えたので、私の祖母は「うちと親戚になる三田の守屋は絶えた」と云っていました。
しかし、禮三夫婦にも子が出来ず、金造の妹瀬牟(せん)の娘が塩見家に嫁いでできた次男正巳がその跡を継ぐことになりました。瀬牟は浅口郡西阿知村西原の守屋茂一郎へ嫁いでいますが、今のところ瀬牟の墓碑は見つかっていません。

禮三は妻は岡山市東中島町の医師三谷時太郎の長女寿子ですが、三十九歳で亡くなり、岡山市西大寺町の植田武三郎次女多女を後妻に迎えています。

正巳の父塩見貞作妻は金造の姪初音です。貞作の弟譲三は元大分県令(知事)で第二十二銀行頭取となった香川真一の娘タツの婿養子となっています。この香川譲三の長女卯野子が旧逓信高等官田中静夫に嫁いで出来た長女祥子が正巳の妻となっています。

槇山守屋家墓地に「○○養気信士、天明4年、俗名號岩崎忠右衛門」という墓碑があります。他姓の墓碑はこれだけです。
槇山守屋墓地の南西に接して槇山の分家(屋号大西屋)と云われる墓地があって、この中に
「寛政九年歿、享年五十八、黒崎村岩崎善左衛門娘阿幾、○○院良真清信女」
「寛政十一年歿、享年六十六、守屋千右衛門勝昇、○○院良道清信士」
という夫婦墓があります。

倉敷市黒崎(旧窪屋郡黒崎村)の庄屋難波家の墓地の上で、共同墓地の中央、おそらく一等地と思われる良い場所に岩崎姓の古墓の集合があります。この中に
「明和八年歿、○○自性、岩崎忠右衛門妻門女」
という墓碑がありますが、忠右衛門の墓碑が見つかりません。
他に、
「享保十七年歿、享年八十七、岩崎善右衛門勝重」
「宝永三年歿、享年六十三、守屋惣左衛門娘寿」
という夫婦墓があります。善右衛門の諱勝重と大西屋守屋家墓地の千右衛門の諱勝昇の「勝」の字の共通性、岩崎勝重妻が守屋姓であること、槇山守屋家の岩崎忠右衛門の墓碑と黒崎村の同妻の墓碑の対応、以上から槇山守屋家、大西屋守屋家、黒崎村岩崎家は重縁があって、槇山と大西屋は本家分家の関係であることを納得しました。

大西屋と同様に槇山の株家と言い伝えられている守屋家に一枚の系図があります。
「先祖は守屋大臣末 姓は橘 氏は弓削 子細有りて守屋但馬守と名乗る 備前国龍ノ口にて討ち死にす 其の子幼少に付き 守屋藤左衛門備中国窪屋郡三田村に居住し 民下に下り子三人有り」
という前書ではじまります。文中の子三人とは、多兵衛、五右衛門、治右衛門であり、各々の流れが通称の羅列と不可解な線で構成されています。五右衛門は倉敷市栗坂の八木家系図に出てくる三田守屋五右衛門と同一人だろうと思われます。多兵衛は後述の春日神社棟札にある人かも知れません。治右衛門は治左衛門の誤記かとも思われますが、槇山の当主来右衛門や株家と思われる曽平は多兵衛の系列に、百姓帳で曽平の父となっている庄次郎は五右衛門の系に出てきます。この五右衛門の系は系図を所蔵している守屋家と田島源五郎家の流れを含んでいて、墓碑とよく一致しています。その他、土岐家の系図に出てくる「三田利弥太」と思われる人が多兵衛の系列に出てきます。

三田字宮山にある八幡神社、春日神社は應神天皇と天児屋根之命を祭っていますが、これは慶長の頃に松島の宮五座神のうち2座神を勧請したのに始まると云われます。この松島のお宮と平松家が何らかの関係があるようです。正保三年の本社棟札に本願主山川勘右衛門、守屋多兵衛、同利兵衛とあり、元禄四年八月下旬の棟札に願主守屋権兵衛並びに村中祠官小郷正直とあります。

間野尚明の原稿を元に書かれた倉敷市史間野家の紹介文中に、
「間野秀明には娘が多く、倉敷水澤氏、児島鞭木小川氏、備前大庄屋守屋忠兵衛等は間野家の出である」
と記しています。水澤家と小川(鞭木)家に嫁いだ人は確認済みですが、守屋家に嫁いだ人(あるいは養子?)は不明です。清水家に残る過去帳には、水澤太郎兵衛妻の他、延享二年に七十七歳で亡くなった守屋利兵衛妻(芳室貞香大姉)という人が記されています。
上記をふまえて三田集落の墓碑を片っ端から探してみましたが、多兵衛、利兵衛、忠兵衛、芳室貞香大姉いずれの墓碑も見つかっていません。

清水家では「清水と親戚になる守屋家と、いま三田にある守屋家とは関係がない」と云っていました。しかし、株家が確かに何軒かあることが判り、清水家の言い伝え(解釈)は本当だろうか?と思うようになりました。「三田利弥太」夫婦の墓碑を捜しながら、三田集落中の守屋姓の墓地を片っ端から調べてみました。観音堂には、槇山の株家と云われる家(上記の他に守屋甲家 守屋乙家)、槇山の株家と云われないが可能性がある家(守屋丙家 守屋丁家 守屋戊家)、寺屋敷に一家(守屋己家)、片山に一家(本姓山地)、更に岡山に出た家(守屋庚家)があるとの情報も得て、そちらへも脚を運びました。


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