守屋家
上道郡沖新田倉田村
天照皇太神宮 願主間野助五郎 「貞享二年九月吉日三氏 奉建立御両社一宇 神職小江正直」 正八幡宮 同木村氏康
この神社は清水家と深い関係があります。もとの位置は現在の平和塔がある場所ですが、現在地に遷宮したのは、清水家が端生坂の高台に居住しはじめたことに関係があると考えています。即ち、清水家の屋敷址は平和塔の上後方になりますから、神社を後方から見下ろすのは良くないので、自家の山中腹に移築したのではないかと思います。
貞享二年の間野助五郎とは文左衛門の別名かも知れません。
倉田新田入植者にある武助は、元禄の頃に(窪屋郡)山北大庄屋を勤めた守安武助盛児(元禄二年歿)、文右衛門は山南大庄屋を勤めた石原文右衛門貞義(瑞堂、正徳五年歿享年七十六、1715-76=1639)ではないかと思います。
実際に守安家や石原家の子孫が新田に入植した記録も、それらしい家であることが判る墓もありません。おそらく、新田造成工事に出資したので、相応の分け前をもらったということではないでしょうか。
「藤野村、七郎右衛門、五町」
というのも和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門光俊(正徳二年歿)ではないかと思われますが、万波家の分家も倉田新田にありません。
さて、倉田新田守屋家の墓碑を調べてみました。
「則到貞覚信士 享保元年八月十日」
「心蓮妙雲信女 享保二年巳二月六日造立之 祥月命日 二月六日」
というのがいちばん古い墓碑になります。それに続くのが前記の利兵衛になるようです。
利兵衛の生存年代は、槙山守屋の権兵衛宗直(享保五年歿享年六十五、1720-65=1655)とほぼ同じですから、貞覚信士は忠左衛門直宗(元禄九年歿)の兄弟になるのかも知れません。
芳室貞香大姉は、清水家所蔵の過去帳に記載されていることから、清水家の直系先祖の姉妹と考えることも出来ます。即ち、源太兵衛貞秋(享保四年歿享年四十九、1719-49=1670)の姉である可能性もあります。しかし、この過去帳には分家の間野家先祖になる作兵衛秀明妻を記載していることもありますし、上記の倉敷市史の記述もありますので(守屋忠兵衛は利兵衛の間違い?)、芳室貞香(=臨室貞香と考える)は作兵衛秀明の娘としました。
利兵衛夫婦に続く墓碑は、
「大機如水居士 宝暦二年十二月二十八日 守屋惣左衛門」
「大慈妙栄大姉 安永九年十一月十九日 守屋惣左衛門宗直妻姓浦上氏行年七十一才(1780-71=1699)」
となるようです。
それから、
「聴善常喜居士 寛政七年八月十九日 守屋與治兵衛直成 五十九才(1795-59=1736)」
「雪洞知幻信女 宝暦七(1757)年十二月二日 留世」
「修法院妙慶信女 文政四年九月二十五日 守屋与治兵衛後妻 行年八十一才(1821-81=1740)」
続いて、
「悟實恵教居士 文化十二年七月十七日 守屋宇七兵衛朋(明の左が目)鏡 四十六才(1815-46=1769)」
「真浄妙阿大姉 文化元(1804)年三月三日 守屋宇七兵衛妻」
この後が、豊島石製墓で摩耗が激しいのですが、
「實應・・ 嘉永五年壬子十月十一日 倉田村與次兵衛」
「法然智光信女 嘉永七年寅九月二十五日 守屋與次兵衛・(妻?)」
そして、
「温光自徳信士 明治四十二年十二月十七日 岡山市難波町守屋佐平 六十七才(1909-67=1842)
温室妙圓信女 妻嘉野」
を経て、新しい墓碑につながるようです。倉田から岡山旧市内へと転居したようです。
・ ――利兵衛 ――惣左衛門宗直――+――八郎次 享保1 寛保1 宝暦2 | 宝暦3 室 室間野氏 室浦上氏 | +――與治兵衛直成――+――宇七兵衛朋鏡――與治兵衛 ――+ | 寛政7 | 文化12 嘉永3 | | 室 | 室 室 | | 室 | | | +――桃次良 | +――甚五郎成宜 浦上家嗣 | 浦上家嗣 三宅家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――佐平 ――栄二 ――績 ――郁男 明治42 昭和25 昭和25 平成17 室 室 室 室
他に、
「樹峯浄心信士 明和六年二月七日 浦上甚五郎成宜
甚五郎諱成宜肯守屋宗直之三男也従幼犀時識操豪邁容礒俊爽平素好読書籍且善嗜撃劔時人称秀才宗直死之後外舅浦上某無嗣以養為子云享年二十七以疾歿(1769-27=1742)」
「清岸恭*(火+月)信女 安永九年二月十九日 浦上甚五良娘於里久 享年十三(1780-13=1767」
という墓碑があります。
與治兵衛直成の弟甚五郎が浦上姓を名乗っていますが、その娘里久も若くして亡くなり、直成の次男桃次良がまたその跡を継ごうとしたようですが、結局浦上家は絶家となって桃次良は児島山田村の三宅家に入ったようです。ここまでして相続しようとした浦上家は、おそらく惣左衛門宗直妻の実家と思われました。
そこで、邑久郡射越邨、即ち現在の西大寺射越に浦上姓がないか電話帳を調べてみました。浦上姓は一軒もありませんが、住宅地図で共同墓地が見つかりましたので、訪ねてみることにしました。
しかし、共同墓地には浦上という墓は一つもなく、上寺山かも知れないと登ったところで、和田、野崎、近藤、山崎などのお墓と遭遇することになりました。
岡山県立図書館に行ってみました。
「浦上元(はじめ)著、備前浦上氏の研究」
という本を知っていましたので、何かヒントが見つかるのではないかと思いました。
検索用端末で検索中、
「浦上家系図、製作者不明」
という資料を見つけて書架を探しましたが見つからず、問い合わせたところ、「デジタル岡山大百科」の中でインターネット閲覧可能とのことでした。デジタル岡山大百科の検索欄に「浦上家系図」と入れると表示されます。閲覧にはDjVuというプラグインが必要ですが、表示させるとpdfファイルに印刷してパソコンに保存できます。
その24頁から29頁に射越村浦上氏の系図が見つかりました。浦上元氏の研究もこの系図を検証することから始まったようです。
射越村浦上家系図よると、元禄六年に死去した與次兵衛光常の女子三人の内、一人が「上道郡倉田行與次兵衛母」と記されています。
これが大慈妙栄大姉に相当することが判ります。
更に、最後の頁には次のような古文書写が付いています。
奉願上
上道郡沖新田倉田村忠左衛門方・邑久郡射越村甚五郎後家抱田畑八反一畝二十八歩半家内人数 男一人女二人 甚五郎後家歳二十六養子桃次郎歳三十一娘里久歳四子共幼少にて作方得不仕候に付伯父忠左衛門方へ引越養育仕度奉存候右三人共宗旨天台宗同郡上寺村恵了院旦那引越参候ても旦那寺其儘用申候抱田畑一打株とも射越村従弟玄寿に預置家は*(禾+憂)屋に用作方引受仕度奉存候尤子供盛人仕候筋は御断申上射越村へ戻し相続仕度奉存候願上之通被為仰付候はば難有奉存候以上
安永
右甚五郎後家家内無残倉田村忠左衛門方へ引越跡作不残一打株共不残工作念入仕可申候射越村へ罷帰り候節そっそく戻し遣申候為其加判仕上可申候以上
惣左衛門宗直と墓碑に記されている人が、生前に忠左衛門と名乗っていたことがわかります。
そうすると、貞享〜元禄に倉田村名主を勤めていた忠左衛門は貞覚信士ではないでしょうか、新田名主は開拓功労家の人が就任するのが一般でしたから、倉田新田干拓に三田守屋家が果たした役割の大きさが推測されます。
古文書の書かれた年が「安永」とのみ記されているのは、書写するときに落ちたと考えられます。
墓誌によると、里久は安永九年二月に十三才ですから、単純計算で明和八年に四才になります。ここは安永元年(1772=明和九年)と解釈して良いと思います。
先の大戦前でも五反あればなんとか百姓として生計が成り立つと云われていました。この家は八反ですから貧困とはいえませんが、十町もの新田を買う豪農と縁組みをしていたころから比べるとずいぶん生活が逼塞していると思われます。そのうちに、今後の資産回復の見込みもなくなり、里久が亡くなったことから、廃家(絶家)となったのではないでしょうか。桃次郎は三宅家に養子に行き、甚五郎後家の墓碑は見つかっていませんから、実家に復籍したか、何処かに再縁したと思われます。
これに関連して、今城村史にも興味深い古文書写があります。
譲申田地之事
一、上田十二歩 所名松木東
一、同 十八歩
一、同六畝八歩半 一反三畝十七歩の内
右の田地其村藤九郎殿墓掃除為世話料進申候間、墓所鹿末に相成不申様世話頼入候、右田地に付以後申分無之候、仍而為証如件
文化十二年十二月 倉田村 宇七兵衛殿
代判 同村 孫兵衛 印
世話人 射越村 栄三郎 印
射越村 徳十郎 印
右の通承届け相違無之御座候、則名寄せ帳面書替可申候 以上
同村名主 金介 印
先の古文書から四十三年後の文化十二年(1815)に書かれたものです。系図によると、藤九郎は甚五郎の養父になる人です。僅かに残った田地を譲る代わりに後の墓守を依頼しています。
なお、「譲申田地之事」という文書紹介として、
「上寺山の西麓に『天正二年三月十六日』と刻んだ等身の墓石がある。なお射越村浦上藤九郎から餘慶寺に先祖の位牌料として金子一両を寄せた。且藤九郎の墓所掃除料として『譲申田地之事』の文書がある」
と書かれています。これを頼りに再度探したところ浦上家の墓所も確認できました。
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