守屋家
上道郡沖新田倉田村




清水家所蔵過去帳に、
「延享二乙丑二月十九日 芳室貞香大姉 守屋利兵衛妻、行年七十七(1745-77=1668)」
という記録があります。
隣村三田で大庄屋を勤めた守屋家(屋号槙山)から私の高祖父の母が来ています。
さらに、三田字宮山にある八幡神社・春日神社の、正保三年三月という本社棟札に、
「本願主山川勘右衛門、守屋多兵衛、同利兵衛」
という記録が残っていますので、槙山とその株家と云われる諸家の墓を片っ端から調べてみました。
ところが、多兵衛も利兵衛はもちろん、前記の戒名を記した墓碑も全く見当たりませんでした。
僅かに、株家という一軒で難解な系図に巡り逢い、それに多兵衛という名を二つ見つけただけでした。
倉敷市史(永山卯三郎編著)第八冊、備中の部村役人一覧、生坂村(1145頁)にも気になる記述があります。
「秀明 頼明ノ子慶庄屋トナリ最モ盛大ヲ極ム元来百姓豪族トシテ苗字帯刀シ来レリ池田氏領地トナリテ以来中小姓格トシテ庭瀬ノ境マテ槍ヲ許サル更メテ帯刀ヲ免サレタリ此人女子多ク倉敷水沢氏児島鞭木小川氏備前大庄屋守屋忠兵衛等皆間野家ノ出ナリ」
これは清水家の分家筋になる間野家(大庄屋を勤める)の先祖秀明について書いたものですが、水沢小川両家については所在地と解る書き方ですが、守屋忠兵衛は備前大庄屋となっていますので、三田守屋家の先祖かと思い込んでいました。
三田村は備前領ですが、備前でなく備中国です。倉敷市の記述を芳室貞香大姉の墓碑を探すヒントとするなら、旧備前国内の大庄屋守屋家をあたってみる必要がありました。
ところが、そういう考えが全く思いつかず、他の親戚関係を辿り(系図のハシゴをし)ながら、手当たり次第に守屋家を訪ねるということを繰り返して来ました。
それはそれなりに収穫もあり、まったく無駄ではありませんでしたが、芳室貞香大姉の墓碑はほぼ諦めの一歩手前のところまで行っていました。

以上とは全く別の家の調査目的で、「国富家・藤原家文書目録(岡山市立図書館所蔵)」を開き、三幡村の大庄屋藤原家を再認識しました。
既に、岡山医学専門学校眼科教授藤原鉄太郎について知識があり、三幡村の大庄屋藤原家の人と知っていました。しかも、この藤原家が今までに訪ね歩いたいくつかの家と縁戚関係にあったことも把握していましたので、藤原家の墓地を調べてみようと思い立ち、ネット上にある記録(こちらの「東山の峠を越えた湊の丘にある藤原家歴代の墓地に眠っている」という記述)を参考に、墓地歩きをしてみました。住宅地図の「⊥」マークを歩くと、比較的簡単に墓地は判りました。
その時点で、パッと頭の隅に点った小さな情報がありました。

少し前になりますが、児島郡山田村の庄屋三宅家をしらべた時、
「其心法玉 三宅平五郎白郷養子上道郡沖新田倉田村守屋與次兵衛直成次男幼名邑久郡射越邨浦上桃次良変名久平太直明歳七十六天保十五年辰八月二日卒 (1844-76=1768)」
という墓誌を拾っていました。
頭の隅に点った灯りというのは、倉田村も三幡村も共に岡山藩が江戸初期に造成した新田で両村は近い位置にあるということです。
藤原家の墓地からそう遠くない場所に倉田村守屋家の墓地もあるのではないかと考えました。

改めて一帯の墓地を歩き始めたとき、藤原家と同じように立派な墓碑が目に止まりました。
実は、この時まで芳室貞香大姉のことはきれいに忘れていましたが、新しい累代墓に入った「九曜」の家紋を見て、おやっ?!と思いました。もしかして槙山守屋家と何か関係のある家ではないだろうか、そんなことを考えながら墓碑をザッと見渡すと、與治兵衛直成という墓があります。とにかく三宅家との接続部が確認されたわけですから、全ての墓誌を丁寧に書き写すことにしました。
「旭峰映樹 寛保元(1741)年六月朔日 守屋利兵衛
 臨室貞香」
という墓がありました。妻の戒名の最初の文字「臨」が「芳」であれば、夫の名も生存年代も一致します。
この利兵衛は1660年頃の生まれでしょうか、正保三(1646)年にはまだ生まれていませんから、八幡神社・春日神社の棟札にある人とは別人のようです。
しかし、備前国の守屋家であることに違いありません。
同じ共同墓地に建っている他の家の墓碑をすべて見てまわりましたが、この守屋家に匹敵するような造りの立派な墓碑はありません(大きさと形、石質、彫りの深さや字体などを総合的にみる)。これは別の共同墓地内にある藤原家の墓と同様です。共同墓地ですから当然墓石は周辺の人の目にさらされています。家の格式をうるさく云われる時代に、分不相応な墓を建てれば恥をかきます。備前大庄屋守屋家かも知れない・・・、そう思うと何か歴史資料がないかと図書館を訪ねてみました。

操陽村史(昭和六十二年発行)によると、倉田村名主として、
貞享〜元禄に、守屋忠左衛門
元禄〜宝永に、守屋利兵衛
文化年間に、守屋宇七兵衛
という記録があります。
更に、延宝七(1679)年の倉田新田入植者が所有地面積と共に一覧にされています(池田光政公傳)。実に驚くべき名前が見つかりました。

西郡村、武助、十町
生坂村、助三郎、六町
三田村、忠左衛門、十町
原津村、文右衛門、十町

これらはいずれも備中国内の備前藩領窪屋郡内の地名です。しかも、新田地内を北から南に流れる用悪水路には「原津」の名も付けられている立川があります。
五十一人の入植者のうち十二人が十町を持っていてこれ以上の所有者はいませんから、岡山藩が分配地面積の上限を設けていたのかも知れません。
忠左衛門というと、忠左衛門直宗(元禄九=1696歿)という人が槙山にいますから、まさにその人かも知れません。直宗が購入して、親族に分家を立てたとも考えられます。
現存する槙山守屋の株家と云われる家はどの家も「九曜」紋を使っていませんが、倉田の守屋家には「九曜」が伝えられているということはそれだけ親戚関係が濃かったと思われます。

助三郎がよく判りませんが、清水家の先祖茂利治貞本が文化七年に記した系譜書に、
「聞傳先助三郎方同性ニ相違無之(先の助三郎の家は株家に違いないと聞いている)」
とあります。これは鼻生坂間野氏について書いた箇所です。清水家は享保の頃まで鼻生坂(端生坂)にありました。
端生坂間野諸家の墓地を歩くと、
「瑞岸祖光信士 寛保三年十月二十九日 助三郎」
という墓誌が一つ見つかりました。この家には他に古い籃塔墓もありますから、その一つが倉田新田に土地を買った助三郎の墓かも知れません。
助五郎とよく似た名前が生坂神社(端生坂)の棟札に残っています。

           天照皇太神宮        願主間野助五郎
「貞享二年九月吉日三氏      奉建立御両社一宇       神職小江正直」
           正八幡宮          同木村氏康

この神社は清水家と深い関係があります。もとの位置は現在の平和塔がある場所ですが、現在地に遷宮したのは、清水家が端生坂の高台に居住しはじめたことに関係があると考えています。即ち、清水家の屋敷址は平和塔の上後方になりますから、神社を後方から見下ろすのは良くないので、自家の山中腹に移築したのではないかと思います。
貞享二年の間野助五郎とは文左衛門の別名かも知れません。

倉田新田入植者にある武助は、元禄の頃に(窪屋郡)山北大庄屋を勤めた守安武助盛児(元禄二年歿)、文右衛門は山南大庄屋を勤めた石原文右衛門貞義(瑞堂、正徳五年歿享年七十六、1715-76=1639)ではないかと思います。
実際に守安家や石原家の子孫が新田に入植した記録も、それらしい家であることが判る墓もありません。おそらく、新田造成工事に出資したので、相応の分け前をもらったということではないでしょうか。
「藤野村、七郎右衛門、五町」
というのも和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門光俊(正徳二年歿)ではないかと思われますが、万波家の分家も倉田新田にありません。

さて、倉田新田守屋家の墓碑を調べてみました。
「則到貞覚信士 享保元年八月十日」
「心蓮妙雲信女 享保二年巳二月六日造立之 祥月命日 二月六日」
というのがいちばん古い墓碑になります。それに続くのが前記の利兵衛になるようです。
利兵衛の生存年代は、槙山守屋の権兵衛宗直(享保五年歿享年六十五、1720-65=1655)とほぼ同じですから、貞覚信士は忠左衛門直宗(元禄九年歿)の兄弟になるのかも知れません。

芳室貞香大姉は、清水家所蔵の過去帳に記載されていることから、清水家の直系先祖の姉妹と考えることも出来ます。即ち、源太兵衛貞秋(享保四年歿享年四十九、1719-49=1670)の姉である可能性もあります。しかし、この過去帳には分家の間野家先祖になる作兵衛秀明妻を記載していることもありますし、上記の倉敷市史の記述もありますので(守屋忠兵衛は利兵衛の間違い?)、芳室貞香(=臨室貞香と考える)は作兵衛秀明の娘としました。

利兵衛夫婦に続く墓碑は、
「大機如水居士 宝暦二年十二月二十八日 守屋惣左衛門」
「大慈妙栄大姉 安永九年十一月十九日 守屋惣左衛門宗直妻姓浦上氏行年七十一才(1780-71=1699)」
となるようです。
それから、
「聴善常喜居士 寛政七年八月十九日 守屋與治兵衛直成 五十九才(1795-59=1736)」
「雪洞知幻信女 宝暦七(1757)年十二月二日 留世」
「修法院妙慶信女 文政四年九月二十五日 守屋与治兵衛後妻 行年八十一才(1821-81=1740)」
続いて、
「悟實恵教居士 文化十二年七月十七日 守屋宇七兵衛朋(明の左が目)鏡 四十六才(1815-46=1769)」
「真浄妙阿大姉 文化元(1804)年三月三日 守屋宇七兵衛妻」
この後が、豊島石製墓で摩耗が激しいのですが、
「實應・・ 嘉永五年壬子十月十一日 倉田村與次兵衛」
「法然智光信女 嘉永七年寅九月二十五日 守屋與次兵衛・(妻?)」
そして、
「温光自徳信士 明治四十二年十二月十七日 岡山市難波町守屋佐平 六十七才(1909-67=1842)
 温室妙圓信女 妻嘉野」
を経て、新しい墓碑につながるようです。倉田から岡山旧市内へと転居したようです。

・    ――利兵衛  ――惣左衛門宗直――+――八郎次
享保1    寛保1    宝暦2     |  宝暦3
室      室間野氏   室浦上氏    |
                      +――與治兵衛直成――+――宇七兵衛朋鏡――與治兵衛  ――+
                      |  寛政7     |  文化12    嘉永3     |
                      |  室       |  室       室       |
                      |  室       |                  |
                      |          +――桃次良             |
                      +――甚五郎成宜      浦上家嗣            |
                         浦上家嗣       三宅家嗣            |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――佐平  ――栄二  ――績   ――郁男
   明治42  昭和25  昭和25  平成17
   室     室     室     室

他に、
「樹峯浄心信士 明和六年二月七日 浦上甚五郎成宜
 甚五郎諱成宜肯守屋宗直之三男也従幼犀時識操豪邁容礒俊爽平素好読書籍且善嗜撃劔時人称秀才宗直死之後外舅浦上某無嗣以養為子云享年二十七以疾歿(1769-27=1742)」
「清岸恭*(火+月)信女 安永九年二月十九日 浦上甚五良娘於里久 享年十三(1780-13=1767」
という墓碑があります。
與治兵衛直成の弟甚五郎が浦上姓を名乗っていますが、その娘里久も若くして亡くなり、直成の次男桃次良がまたその跡を継ごうとしたようですが、結局浦上家は絶家となって桃次良は児島山田村の三宅家に入ったようです。ここまでして相続しようとした浦上家は、おそらく惣左衛門宗直妻の実家と思われました。

そこで、邑久郡射越邨、即ち現在の西大寺射越に浦上姓がないか電話帳を調べてみました。浦上姓は一軒もありませんが、住宅地図で共同墓地が見つかりましたので、訪ねてみることにしました。
しかし、共同墓地には浦上という墓は一つもなく、上寺山かも知れないと登ったところで、和田、野崎、近藤、山崎などのお墓と遭遇することになりました。

岡山県立図書館に行ってみました。
浦上元(はじめ)著、備前浦上氏の研究」
という本を知っていましたので、何かヒントが見つかるのではないかと思いました。
検索用端末で検索中、
「浦上家系図、製作者不明」
という資料を見つけて書架を探しましたが見つからず、問い合わせたところ、「デジタル岡山大百科」の中でインターネット閲覧可能とのことでした。デジタル岡山大百科の検索欄に「浦上家系図」と入れると表示されます。閲覧にはDjVuというプラグインが必要ですが、表示させるとpdfファイルに印刷してパソコンに保存できます。
その24頁から29頁に射越村浦上氏の系図が見つかりました。浦上元氏の研究もこの系図を検証することから始まったようです。

射越村浦上家系図よると、元禄六年に死去した與次兵衛光常の女子三人の内、一人が「上道郡倉田行與次兵衛母」と記されています。
これが大慈妙栄大姉に相当することが判ります。
更に、最後の頁には次のような古文書写が付いています。

奉願上
上道郡沖新田倉田村忠左衛門方・邑久郡射越村甚五郎後家抱田畑八反一畝二十八歩半家内人数 男一人女二人 甚五郎後家歳二十六養子桃次郎歳三十一娘里久歳四子共幼少にて作方得不仕候に付伯父忠左衛門方へ引越養育仕度奉存候右三人共宗旨天台宗同郡上寺村恵了院旦那引越参候ても旦那寺其儘用申候抱田畑一打株とも射越村従弟玄寿に預置家は*(禾+憂)屋に用作方引受仕度奉存候尤子供盛人仕候筋は御断申上射越村へ戻し相続仕度奉存候願上之通被為仰付候はば難有奉存候以上
 安永
右甚五郎後家家内無残倉田村忠左衛門方へ引越跡作不残一打株共不残工作念入仕可申候射越村へ罷帰り候節そっそく戻し遣申候為其加判仕上可申候以上

惣左衛門宗直と墓碑に記されている人が、生前に忠左衛門と名乗っていたことがわかります。
そうすると、貞享〜元禄に倉田村名主を勤めていた忠左衛門は貞覚信士ではないでしょうか、新田名主は開拓功労家の人が就任するのが一般でしたから、倉田新田干拓に三田守屋家が果たした役割の大きさが推測されます。
古文書の書かれた年が「安永」とのみ記されているのは、書写するときに落ちたと考えられます。
墓誌によると、里久は安永九年二月に十三才ですから、単純計算で明和八年に四才になります。ここは安永元年(1772=明和九年)と解釈して良いと思います。

先の大戦前でも五反あればなんとか百姓として生計が成り立つと云われていました。この家は八反ですから貧困とはいえませんが、十町もの新田を買う豪農と縁組みをしていたころから比べるとずいぶん生活が逼塞していると思われます。そのうちに、今後の資産回復の見込みもなくなり、里久が亡くなったことから、廃家(絶家)となったのではないでしょうか。桃次郎は三宅家に養子に行き、甚五郎後家の墓碑は見つかっていませんから、実家に復籍したか、何処かに再縁したと思われます。

これに関連して、今城村史にも興味深い古文書写があります。

 譲申田地之事
一、上田十二歩  所名松木東
一、同 十八歩
一、同六畝八歩半 一反三畝十七歩の内
右の田地其村藤九郎殿墓掃除為世話料進申候間、墓所鹿末に相成不申様世話頼入候、右田地に付以後申分無之候、仍而為証如件
 文化十二年十二月 倉田村 宇七兵衛殿
       代判      同村 孫兵衛 印
       世話人    射越村 栄三郎 印
              射越村 徳十郎 印
右の通承届け相違無之御座候、則名寄せ帳面書替可申候 以上
       同村名主       金介 印

先の古文書から四十三年後の文化十二年(1815)に書かれたものです。系図によると、藤九郎は甚五郎の養父になる人です。僅かに残った田地を譲る代わりに後の墓守を依頼しています。

なお、「譲申田地之事」という文書紹介として、
上寺山の西麓に『天正二年三月十六日』と刻んだ等身の墓石がある。なお射越村浦上藤九郎から餘慶寺に先祖の位牌料として金子一両を寄せた。且藤九郎の墓所掃除料として『譲申田地之事』の文書がある」
と書かれています。これを頼りに再度探したところ浦上家の墓所も確認できました。


ホームページへ