守屋家
窪屋郡三田村





かつての三田村に東、中、西守屋という三つの有力な守屋家があり、中=槇山守屋、西=守屋家で、東守屋はリュウミンという後に岡山に出た医者の家と聞きました。(槇山分家)は東守屋とは株が違うとも云われます。

岡山に出たあとは同村内の山地家が買い取って分家を立てています。ややこしいことに、この分家がまた守屋姓を名乗っています。田舎に行くと、同じ姓だけれど、あそこは違うのです、ということを良く聞きますが、こういう背景もあるのです。

山地家の明治三年宗門帳に、

一 万蔵   印  歳五十六 判頭 十月廿二日里正格被仰付候閏十月十日判頭役被差免候
  妻    印  同四十九
  子亀三郎 印  同二十九
  嫁    印  同二十八 亀三郎妻
  孫佐五郎 印  同八   同人子
  孫冶郎蔵 印  同二   同人子
  孫たつ  印  同五   同人娘
  子槌蔵  印  同十八  閏十月願出当村七郎右衛門政一打株増太郎より譲受株継別家仕候
  娘わき  印  同二十五
  娘さちの 印  同二十一 閏十月願出当村七郎右衛門政一打株増太郎より譲受株継別家仕候
  母    印  同八十六

とありますので、東守屋の当主は七郎右衛門と名乗ったことが判ります。この世話をしたのが五人組頭(則武)増太郎だったようです。

江戸時代でも、医師となり名声を得て典医(殿様の主治医)となることで、農村から院号を貰えるような家に出世する道がありました。寺屋敷の墓地入り口にある大きな碑に院号を刻んだ守屋家はこの家ではないのか、そう考えると何とかしてリュウミン家の消息を知りたいと思いました。
ためしに明治二十四年の岡山県地主録を開けてみると、直接国税百二十四円三十八銭九厘を納めた守屋立民という名がうまく見つかりました。ついで、「帚苔録(渡辺知水他)」に墓地の地図が記されていたのでさっそく訪ねてみました。

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本立征利――+――立民征晃――+==純太郎 ――+――博  ――明
嘉永3   |  大正1   |  某氏    |  平成2
室守安氏  |  室別府氏  |  昭和31  |  室
      |        |  室池田氏  |
      +――良造    |        +――学治
         木村家嗣  +――静子
               |  井上家嫁
               |
               +――第三征勝
               |
               |
               +――寿子
               |  高橋#妻
               |
               +――昌吉征義
               |  大正2
               |
               +――健造
                  春日

* =牡の右が羊

七郎右衛門=本立なのか、本立の親なのかよく判りません。諱の通字「征」は守屋家と共通で、墓碑の傘の形は槇山守屋家に良く似ています。立民の墓誌から本立は三田村で死去したことが明らかです。立民の家は墓も岡山に持っていったと云われますので、本立の墓は観音堂に建てられて後に移転されたのでしょう。
墓誌によると、本立は文政年中に分家して医業を始めています。妻力(守安氏)は明治二十一年に六十九才で死去しています。ところが明治三年の宗門帳には、

一、立民   印  歳三十四 医者
  妻    印  同二十八
  養子純太郎 印 同七
  娘しずた 印  同五
  養育人りそ 印 同五十一
合五人内男弐人女三人 印 印

となっていて、力=立民母が載っていないのが不思議です。
立民は天保八(1837)年生まれ、十二歳で父が亡くなり、家はたいへんな状況になります。十四才で岡山の蘭医物部雄民に師事、後に京都の小石仲蔵に就いて蘭法を学び安政六(1859)年に帰郷、明治四年には岡山藩大病院及医学館に勤務して森下坊(森下町)に開業、同九年に天瀬坊(天瀬町)に移り、旧藩主池田候の主治医となっています。大坂の除痘館(緒方洪庵)から、嘉永二年から明治二年の間に分苗を受けた診療所の中にリストアップされています。妻八十は清音村上中島別府吉郎太長女で、四男二女をもうけています。

純太郎は文久三(1863)年に三田村で生まれています。おそらく一家は明治初年まで三田村で暮らしていたと思われます。眼科医となり、漢詩人としても有名で友石と号しました。妻ヤスヨは備後深安郡山野村池田欽三長女で、三男一女をもうけています。

博は順天堂大医学部教授を勤め、医療辞退連盟を提唱しました。
「現代の医学は死の間際でもあれこれ処置を行って一分一秒でも長生きさせようとしているが、習慣的、儀礼的になってはいないか。治らない病気になったとき、無駄な治療をは止めてくれと生きている内に宣言しておこう。医療が必要とか不必要とかの判断は銘々でやれば良い。」
この様な考え方のもとに、医療辞退連盟は、「年を取って植物状態になったとき、余計な治療は無用、ご辞退する」という有志の集まりで、昭和五十三年七月に行われた総会に約百人が参加したという山陽新聞記事がありますん。

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学治  ――+――道治
平成2   |  
室     |
      +――純子
      |  黒川和典妻
      |
      +――治子
         宇佐美襄妻

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第三征勝――+――誠   ――清康
昭和37  |  平成6
高橋氏  |  室山本
      |
      +――悦
         佐藤



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