守屋家・大西
窪屋郡三田村
槇山守屋家墓地に「**養気信士、天明四年、俗名號岩崎忠右衛門」という墓碑があります。
槇山守屋の南西に分家(屋号大西屋)と云われる墓地があり、
「寛政九年歿、 享年五十八、黒崎村岩崎善左衛門娘阿幾、**院良真清信女」
「寛政十一年歿、享年六十六、守屋千右衛門勝昇、 **院良道清信士」
という夫婦墓があります。
倉敷市黒崎(旧窪屋郡黒崎村)の庄屋難波家の墓地の上で、共同墓地の中央、おそらく一等地と思われる良い場所に岩崎姓の古墓の集合があります。この中に
「明和八年歿、**自性、岩崎忠右衛門妻門女」
という墓碑がありますが、忠右衛門の墓碑が見つかりません。
同所には他に、
「享保十七年歿、享年八十七、岩崎善右衛門勝重」
「宝永三年歿、 享年六十三、守屋惣左衛門娘壽」
という夫婦墓があります。善右衛門の諱勝重と大西屋守屋家墓地の千右衛門の諱勝昇の「勝」の字の共通性、岩崎勝重妻が守屋姓であること、槇山守屋家の岩崎忠右衛門の墓碑と黒崎村の同妻の墓碑の対応、以上から槇山守屋家、大西屋守屋家、黒崎村岩崎家は重縁があって、大庄屋と大西屋は本家分家の関係であると納得出来ます。
墓地内には
「安永八年歿、**浄随、守屋鉄治郎豊学」
という墓碑もあり、これは都窪郡誌にも載せられている三田村五人組頭を勤めた鉄治郎と思います。
倉敷市浅原に幕末に大庄屋を勤めた秋庭家の墓地がありますが、この中に
「秋庭善太夫盛吉本姓守屋氏、安永三年歿、享年六十五」
「同室友野氏、寛政九年歿、享年七十一」
という夫婦墓があります。郷土資料に、盛吉は三田村守屋鉄治郎弟とあります。
守屋鉄治郎の先代は墓碑からみると與三郎(享保十二年歿)のようです。
また、墓地内にある
「文政八年歿、傳次兵衛正義、西中島村三島傳右衛門三男、**養海信士」
も都窪郡誌三田村名主一覧表中の(守屋)傳次兵衛と一致します。
傳次兵衛の父は正直といい三人の妻を迎えています。三番目の妻吉の墓碑には三田村守屋氏とあるだけです。
宝永の百姓帳に、
壱軒
一家内八人内男四人
女四人 六右衛門
内
壱人 六右衛門 歳 五十
壱人 女房 歳四十六
壱人 婿与三郎 歳二十八
壱人 娘たつ 歳二十五
壱人 娘まき 歳 十六
壱人 孫七十郎 歳 七
壱人 孫吉三郎 歳 二
壱人 母 歳 七十
牛壱疋
という家がみつかりました。「享保十八年歿、**浄意」の墓碑に六右衛門とあり、「與三郎、享保十三年歿、**還心」と一致して、なお孫吉三郎が秋庭善太夫盛吉の生年に一致しますので、この家族は大西屋であることに間違いないようです。とすれば、磨耗が酷くて判読できない墓碑を六右衛門の父とすれば、初代からの全ての墓碑が確認できます。
明治三年の宗門帳をみると、
一、傳次 印 歳五十九 判頭 四月廿一日免 印(東雲院)
娘たけ 印 同十九 三月廿八日願出倉敷縣御支配地都宇郡中嶋村保之助妻に遣申候其節迄は東雲院(印)旦那
合弐人内男壱人女壱人 印 印
外に養子柳蔵 印 同六十二 此者家主 二月廿五日願出当村斧次郎弟引受申候
両方共同宗同寺旦那
嫁 印 同五十八 柳蔵妻 右一紙に引受申候
養子浅五郎 印 同三十二 右一紙に引受申候
養孫ちよ 印 同三 浅五郎娘 右一紙に引受申候
〆男女四人
となっています。
墓地に
「柳蔵、明治十七年歿年七十六、**法性信士」
「浅五郎、西坂村安井弥八次男、明治二十五年歿年五十四、**圓性信士」
という墓碑があることから、傳次兵衛の子傳次は生まれて間もなく父を喪い、成長の後に三田村判頭を勤め、明治三年に五十九歳で死去するまで、その職にあったと思われます。
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某――六右衛門――與三郎 ――+――鉄治郎豊学――+――千右衛門勝昇==傳次兵衛正義――傳次 ――+ 享保18 享保12 | 安永8 | 寛政11 三島氏 明治3 | | 室守屋氏 | 室岩崎氏 文政8 | | 室寺尾氏 | 室秋岡氏 | | 室渋垂氏 +――吉 | | 三島正直妻 | +――善太夫 | 秋庭家嗣 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――たけ | ・・保之助妻 | +==柳蔵 ==浅五郎 ==文三郎 ――茂一 ――清 ――啓 ―― 一良 守屋氏 安井氏 小橋氏 昭和40 平成5 昭和45 明治17 明治25 大正10 室中山氏 室守屋氏 室宇野氏
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