私の家系図調べ その二


祖母が遺していた文箱の中には、いくつか間野姓の方から戴いた手紙・葉書がありました。間野英雄氏と間野東明氏です。
父は、
「英雄は隣のお墓(下写真、周囲の木々を伐り払った後)の子孫らしい、東明は倉敷市史編纂の時にうちの一族の由緒書を提出した尚明の子だろう」
と教えてくれました。

さて、手紙を書くとなると相手方がどういう人なのか気になります。父は東明氏一家とは面識があり、昭和三十年代までは墓参りに来られたとき会っていたといいます。英雄氏については不明でした。

知りたい一心ですから思い切って手紙を書いてみました。その事後報告をしたときに父に叱られましたが、お返事は意外に早く届き、しかも好意的な文面でした。
英雄氏は既に亡く、その妻信子様のものでしたが、お二人とも祖母と面識があり、
「とにかく清水のおばあさま縁(ゆかり)の方からのお手紙が嬉しい」
とのことでした。法要の際に関係者に配布されたという英雄氏の経歴を記したもの、日記の一部などの小冊子も入っていました。英雄氏も先祖調べに凝られた時期があったそうで、その経緯と概要を信子様の記憶にある範囲で教えていただきました。
家系図調べを始めてから書いた手紙は二千通以上になると思います。その驚異的記録を作った始まりはこのありがたいお便りを戴いて味を占めたことでした。

どうやら私が捜していた間野五三兵衛の子孫になるようでしたが、清水家の方を分家と記されていました。即ち、
「清水家の女児が孤児となり五三兵衛を頼った。五三兵衛はこの女児に石原家より婿養子を迎えて分家させた、これが清水氏の先祖」
ところが、清水家の方では、
「本家の女児が孤児となったので五三兵衛が世話をした。五三兵衛はこの女児に石原家より婿養子を迎えて相続させた」
と伝えていたのです。

この双方の解釈の行き違いは、清水家の中興期に始まるらしいことがわかり、その頃の両家を取り仕切った五三兵衛という人物の調査にかかりました。明けても暮れても五三兵衛なので、私の先祖調査に、うちの家族が「ごさんべえ」というニックネームをつけました

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