私の家系図調べ その八



そのうち、本家で写した古文書の中に、清水内膳に始まる系図と何となく一致する文書が数点かあることに気付きました。

そのうちの親類書(上写真)は、

親類書

一、祖父 以前山崎甲斐守殿ニ知行百五拾石給相勤罷有   清水彦右衛門
     五拾年以前病死仕候
一、父  水谷出羽守方ニ而知行弐百石数年郡奉行相勤   清水弥右衛門
     其以後宗旨改役被申付候只今ハ備中之内
     西阿知村ニ引込罷有候
一、伯父 松平飛騨守殿ニ而知行三百石給奥付相勤罷有候  伴五兵衛
一、伯父 稲葉丹後守殿ニ而知行三百石給者頭相勤罷有候  清水儀右衛門
一、伯父 山崎主税助殿ニ而知行百石給當年在所相勤罷有候 清水助左衛門
一、伯父 同家中ニ切米ニ而元分役相勤罷有候       清水彦之丞
一、従弟 稲葉丹後守殿ニ中小姓相勤罷有候        清水瀬兵衛
一、従弟 同家中ニ知行弐百石給出入司相勤罷有候     高野瀬作兵衛
一、従弟 山崎主税助殿ニ中小姓相勤罷有候        清水権太夫
          先主水谷出羽守方より親ニ掛リ罷有候一分ニ奉公ハ被
          申付
一、従弟 松平伊予守殿ニ中小姓相勤罷有候        谷田弥三郎
    右之通ニ御座候               右之通ニ御座候
                             清水彦右衛門
              先主水谷出羽守に而親ニ懸リ罷有候一分ニ奉公ハ
              被申付相勤罷有候四年以前・・・
      丑
       正月十一日      本国近江
                  生国備中松山   清水彦右衛門 花押

水谷(みずのや)出羽守は備中松山藩主水谷出羽守勝美のことで、元禄六年に幕府の末期養子の禁に触れて改易除封(取り潰し)にあっています。この時の収城使(城の受け取り役)を勤めたのが、赤穂藩浅野内匠頭長矩、実務は家老の大石内蔵助が行っています。水谷家側の責任者が鶴見内蔵助、両内蔵助の間で事務引き継ぎが行われましたが、このあと八年を経て浅野家(大石内蔵助)は水谷家(鶴見内蔵助)と同じ運命をたどって「赤穂四十七士討入」へとつながるのです。

水谷家の家臣表は数点歴史資料として現存しています。この中に、
「清水彦右衛門 二〇〇石」
という記録がみつかりました(岡山県史他)。

「只今は備中西阿知村に引き込み」とあるので、弥右衛門は会社(松山藩)の倒産後西阿知村に隠居していたようです。元禄六年は酉年、その後の干支をみると、同十(1697)年が丑年になっています。五拾年以前はちょうど五十年前という意味ですから、1697-50、1647=正保四年、その翌年が慶安元年で、清水内膳に始まる系図に記されている、讃州丸亀で六十一才で死去した彦右衛門の歿年に一致します。
そこで、親類書を書き改めると、

清水
彦右衛門――+――弥右衛門   ――彦右衛門
慶安1   |  室谷田氏
      |
      +――女
      |  高野瀬作兵衛妻――作兵衛
      |
      +――伴五兵衛
      |
      +――儀右衛門   ――瀬兵衛
      |
      +――助左衛門   ――権太夫
      |
      +――彦之丞

即ち、清水内膳に始まる系図において二代目の彦右衛門は、親類書では弥右衛門となっているわけです。更に、その子が彦右衛門ですから、この家は代々彦右衛門を襲名したことが解ります。

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