私の家系図調べ その十五



東明家所蔵系図と過去帳で、真っ先に注目したのは、
「貞仁    丸川次郎 号貞勝  同国新見ニ住ス」
「貞盛    清水三郎  豫州松山ニ住ス国主ニ仕ヘ子孫繁栄仕官也」
という二人が、生坂清水家の過去帳で確認できる最も古い先祖源左衛門貞家の弟として記され、過去帳の冒頭に、
「丸川御先祖代々精霊  阿賀郡新見藩中也」
「清水御先祖代々精霊  伊豫国松山藩中也」
の二家が同一枠内に記されていることでした。

過去帳の冒頭には、別枠に、
「生坂分家御先祖代々精霊  現今清水ト復姓」
という記録もありますので、伊豫国松山藩中清水家は、現在の生坂清水家とは別の家を指しています。

伊豫松山藩の侍帳(士族名簿)はすぐに調べられませんので、倉敷市史に掲載されている新見藩侍帳を開けてみると、同藩には丸川松隠の家以外に丸川姓の侍はいないことが判りました。そうすると、
「貞仁    丸川次郎 号貞勝  同国新見ニ住ス」
は、松隠の先祖に違いなく、松隠の先祖と兄弟(姉妹)関係で、(伊豫でなく備中)松山藩清水氏を並べているという点で、生坂清水家所蔵の「清水内膳を筆頭にする系図」と一致します。

先に、清水内膳の家は、出身地、姓、家紋、諱の通字という四つの共通性から、生坂清水家と遠祖が共通するはずだと考えていましたので、たいへん大きな証拠を掴んだ感触でした。
清水内膳の家と間野家系図を年代対照してみます。

若狭守    ――内膳  ――+――庄九郎
               |
               +――入兵衛    ――+――内膳
                  元和5      |
                           |
                           +――彦右衛門  ――彌右衛門貞直――女      ――女    ――利八郎
                              慶安1     宝永3     神原長十郎妻   石原義芬妻  貞秋跡嗣
                                      室谷田氏

生坂清水家所蔵系図には内膳から書かれていますが、清水正夫氏所蔵系図には若狭守から記されています。

徳兵衛貞元――+――源次貞時
天正10   |  
       |
       +――源左衛門貞宗――源左衛門貞家 ――+――作兵衛家明
          文禄1     寛永11     |  黒瀬家嗣
          室京極氏    室黒瀬氏     |
                           +――治郎兵衛  ――文左衛門  ――源太兵衛貞秋 ==利八郎貞ェ
                              慶安5     元禄5     享保4      石原義芬次男
                              室       室岡氏     室        宝暦11
                                                       室貞秋娘

系図には、徳兵衛貞元が清水から間野と改めたと記してあります。その長男源次貞時(豊後守)に、
「真野十兵衛養子ト成ル 慶長十六年三月二十八日豊臣内大臣秀頼公上洛供奉其後事跡不詳」
とあり、次男源左衛門貞次(号貞宗)が
「江州観音寺城没落同国真野ニ住ス後亦備中成羽竹井家ヘ仕ヘ戦功度々有之文禄元年六月十三日卒 戒名寛興院殿仁源勇道大居士 行年五十九」

東明家所蔵系図は、近江の清水家が親族の間野(真野)家の姓を名乗ったと語っているようで、生坂に定住した源左衛門貞家の長男作兵衛家明が母の実家黒瀬を、次男治郎兵衛が源左衛門の跡を相続したという歴史と同じことが過去にもあったのかも知れません。
若狭守=徳兵衛貞元、或いはこの二人は兄弟になるのか、この辺りで生坂清水家の先祖と内膳の家が分かれたと思われます。

冒頭の、丸川次郎、清水三郎は下系図の源左衛門貞家の弟として記されていますが、上系図では彌右衛門貞直の位置に入ります。
系図は度々書写されながら伝えられるもので、紙が傷んで判読が難しくなると誤写されることもあります。
源左衛門貞次(号貞宗)の行年、徳兵衛貞元の父源太兵衛貞氏の事績など、倉敷市史の記述と違っている箇所もあり、他にも古い系図(或いは先祖書)があったと思われます。

 続く(戻る


ホームページへ