宮本家
讃岐国塩飽本島
いまの香川県丸亀市沖の本島とその周辺の島々は塩飽(しわく)諸島と呼ばれ、本島は塩飽水軍の本拠地でした。海賊というと、航行中の船を襲って金銀財宝を略奪する怖いイメージがありますが、海賊は「水軍」とも云われるように、海上での武力行使に長けた軍隊で、縄張り内の海の状態を知り尽くした上に築かれた優れた航海造船技術を持った集団です。この航海の技術は、周りを海に囲まれた日本では、たいへん貴重でしたから、古くは遣唐使の時代から、日本の支配者たちにとっては無視できない存在であったようです。和冦というのは、日本史で勉強してご存知かと思いますが、中国や朝鮮からこの取り締まりを求められても、日本政府がお世話になっている集団の弾圧など、そう簡単に出来るものではなかったようです。
戦国時代になり各地で力の争いが始まると、各地の水軍も海上の領有権を主張して、近隣の大名と駆け引きや戦をしながら生き残りを計るようになります。そのうちに、信長、秀吉、家康という傑物が現れて天下統一となるわけですが、これらの傑物も巧みに水軍の力を利用して戦争をしています。摂津石山本願寺攻め、小田原城の兵糧攻めなどの裏に塩飽水軍の活躍があります。
このような経緯がありますので、江戸時代の塩飽水軍もその海運技術をもって仕える代わりに幕府から或る特権を与えられていました。この特権が与えられたのは、秀吉の時代にさかのぼります。天正18年、秀吉から塩飽船方650人に対して、塩飽諸島の物成高1250石を領知させるという朱印状が発行されています。つまり、塩飽水軍の船方たちは、武士ではありませんが、大名旗本のように秀吉や徳川幕府に直属で仕え、年貢を納める義務もなく、実質的に封建制度下では珍しい自治権を与えられた特別集団であったわけです。船方たちは、この仕組みを「人名(にんみょう)」と自称して高い誇りを懐いて封建制度の中を生き抜いたようです。
なお、幕末に勝海舟を船長として渡米した咸臨丸を操縦した船乗り達の多くは、この塩飽諸島の出身者でした。
塩飽諸島の政治は人名中から選ばれた年寄によって行われていました。天正年中、人名制度の原型が出来たときの年寄は、宮本伝太夫、吉田彦右衛門、真木又左衛門、入江四郎右衛門の4名となっています。宮本伝太夫は法名を道意と云い、秀吉の朝鮮出兵をはじめ多くの武功があった人のようです。真木又左衛門の跡の年寄株は、慶長13年、道意の長男伝太夫宗観が継ぎ、入江四郎右衛門の跡も、寛永7年に道意の次男助之丞が継いでいます。道意の跡は3男の半右衛門宗満が相続しました。こうして、宮本氏の塩飽での権力は絶対化していったようです。宗観の跡は伝右衛門を襲名しています。備前児島下村の渾大防(高田)家に嫁いだ縫子はこの家の出のようです。
助之丞宗瑞には子がなかったので、享保元年、備中から禅右衛門という養子を迎えますが、禅右衛門は3年ほどで島を退転し、このあと本家筋から分かれた七十郎が年寄役を継いでいます。
伝太夫――+――伝太夫 道意 | 宗観 | +――伝右衛門 | +――助之丞 | 宗意 | +――半右衛門――伝左衛門――伝左衛門――伝太夫――+――伝太夫――伝太夫――伝太夫――+ 宗満 清伝 幸閑 幸年浄専 | 浄言 宗義 宥照 | | | +――七十郎 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――伝太夫――伝太夫 良善 幸通
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伝太夫――伝太夫――伝右衛門――伝右衛門――伝右衛門――伝右衛門――伝右衛門――伝之助 宗観 宗心 道遷 高讃
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助之丞――助之丞――助之丞==禅右衛門 宗意 清夢 宗瑞
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七十郎――伝太左衛門――伝太左衛門――政吉
宮本氏は肥後国菊池家譜代の將でしたが、菊池氏が大友氏に滅ぼされたときに一族の者が塩飽本島に移住して旧族の宮本佐渡守の跡を継いだといわれます
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