永田家
西北条郡津山田町
近江源氏佐々木氏支族として宗家の六角氏に仕えていましたが、戦国末期の争乱のためでしょうか、美濃国土岐郡内三千石の地に移住しました。その居宅跡は「永田屋敷」として名が遺っているとのことです。
下記の系図は初めて永田と名乗った七郎胤信からを並べたものですが、高重は晩年に美濃へ移住していて、次郎右衛門高家は元亀元年九月十九日に西近江西坂での戦で戦歿、坂本来迎寺に葬られました。
半七郎重宗は江州後からに作州へ移って森家に仕え、この従弟源六郎貞高は元亀・天正の頃の戦で近江と美濃の間を行き来、晩年に作州津山に移住して森家から食禄を貰いました。
従四位侍従森美作守源長成公時代の分限帳に、
「大洞十太兵衛組 勘定弐拾石五人扶持 永田藤七」
とあり、公的資料からも永田家先祖が江戸幕府初期から津山藩に仕えていたことが判ります。
半七郎重宗の妻は可児兵太娘ですが、慶長八年癸卯五月津山侍屋敷割に「可兒兵太」の名が確認出来ました。
半七郎重高は同じ津山藩士の加藤儀右衛門照重次男で、その妻は追川喜太夫の娘、後妻は株家の永田七郎右衛門宗元の娘です。後妻永田氏は所左衛門員之と澤子の母、重高のあとは後妻永田氏の末弟藤七定重が相続しています。
藤七定重の代に森家は断絶となり、いわば会社の倒産にあった社員のようなものですから、永田家もたいへんな時代を迎えたと想像されます。美濃から森家を頼って来た家で、在地の農家や商家の様に資産も何もなく、貯蓄の取り崩しで生活を送っていたのではないでしょうか。歴史教科書では「士農工商」と教えられ、武士は社会の最上層に位置する有能な集団のように錯覚しますが、実は現代のサラリーマンと変わらないほど生活基盤が不安定な集団だったのです。
しかし、藤七定重で注目すべきと思うのは、わざわざ江戸まで出向いて松平家就職のための面接試験を受け、首尾良く合格している点です。こうして森家の跡に津山に入封した松平家で「八両三人扶持、御勘定役」という地位を与えられ、初代藩主松平宣富入封の前、津山に戻ってさっそく仕事を始めました。松平家としても地元の勝手を知った有能な人を家臣として使いたかったのでしょう。
「勤書」を読むと、定重は後に大坂や京都に出張・赴任して仕事をしています。享保十一年津山藩分限帳(藩主松平浅五郎様高拾萬石御時代)によると、定重の弟本郷所左衛門も「大阪御蔵奉行 拾両四人扶持 御役料米三拾俵 新五左衛門組 」となっています。おそらくけっこう辛いこともある支店・出張所勤務はこれまた現代と同じだろうと思いますが、家族そろっての移動という家庭事情が幸いしたのでしょうか、子の省吾は京都の伊藤東崖に入門して学問に励み、後に藩主の侍講を務めるまでに出世しています。
定重はその後、御臺所目附 瑞華院様附 拾両三人扶持 佐五右衛門組(享保十一年津山藩分限帳)となります。
ところが、二代藩主浅五郎(宣富の長男)が僅か十一才で早世したため藩は危うく改易(取り潰し)されかけます。末期養子の禁といって、あらかじめ跡継として届け出ていた人でないと藩主になれない、浅五郎が自分の跡継を決めていなかったので、藩主になるべき人がいないから藩は取り潰すということです。こういう原則でしたが、宣富(長矩)は徳川家康の第二子・松平(結城)秀康の曾孫という由緒ある家筋であったため、宣富の弟知清の三男長熈を何とか跡継に認めてもらいます。しかし、十万石の領地は五万石に減らされましたので、半数の家臣は養いきれないことになります。現代の不況下でのリストラと全く同じ事がおきたわけです。
「享保十二年御減知ニ付御暇人名帳 御減知に付御暇被下候面々 御減知後追々帰参之面々」に「金拾両四人扶持 大番組 永田藤七」の名が見られます。定重は寛文元年生まれですから享保十二年には六十七才、一番にリストラされてもおかしくない年齢でした。
分限帳では省吾、有蔵の名は確認出来ませんが、永田家の「勤書」には「元文四己未年十一月朔日省吾儀御捨扶持五人扶持被下置候」となっていて、薄給ながら子の省吾は再就職が叶ったようです。省吾は寛保二年五月から登城して論語古義を開講しますが、「延享三年困窮にて借金夥敷難渋仕候」とあって、生活はなかなか苦しかったようです。明和四年六月に省吾は死去し、同五年七月その子有蔵は修業のため上京、この時「依之年分金五両宛被下置候」となっていますから、永田家は藩の学問係として認められていたようです。有蔵は同六年七月、脚気を煩い、その治療のために帰郷、同九年八月に御勘定奉行支配となり、体が回復したので安永二年十月に再度上京しますが、病後で独身でもあったので母(本郷氏)が心配し、身の回りの世話のために一緒に上京したいと願い出て許可されたということも記されています。学業成って同九年十一月に津山に帰ったというところで有蔵の「勤書」は終わっています。有蔵の子敬蔵は天明二年に生まれていますから、有蔵は津山に戻って間もなく妻妹尾氏を迎えたものと思われます。
永田家の系譜に興味を持ったのは、戸川家親類記の妹尾家の項目の中に、妹尾家と永田家の重縁が記されているのを見付けてからです。永田敬造(=敬蔵、桐隠)は江戸時代の漢学者ですが、蘭学者箕作阮甫の最初の師でもあります。
箕作阮甫、秋坪の関係書籍は数多くあり、もちろん系図も紹介されていますが、いろいろ誤解もあるようです。阮甫の妻は大村誠意の養女であるとは書かれていても、その本姓が妹尾氏であることは知られていません。秋坪の実母が後藤氏であることは書かれていても、佐野右衛門基義の娘であることは知られていません。
そこで、永田家と妹尾家の関係を検証して、箕作阮甫が永田桐隠に師事した経緯が少しでも解明できたら良いと思いながら永田家の消息を捜していました。そのうち、桐隠のお墓が見付かったの連絡を戴き訪ねてみました。その折りに、
「自分の母方親戚を辿って永田家に辿り着いたのですが、貴家の系譜についてご教示を戴きたい」
との伝言を書いた紙切れをラップフィルムに入れて墓前の花立てにさして帰りました。次のお彼岸、祭祀を引き継がれている方から連絡を戴き、調査は思いの外順調に進むことになりました。
戸川家親類記「妹尾氏代々西新町住屋号増屋」の項目には、
「倉鋪川ノ下モ奥村三良右エ門母此人早世後妻者長田敬造殿伯母此家ヘ嘉永七寅年*月*日舛屋伯母位拝ニ行一宿」
とあります。
また、
「舛屋妹尾甚兵衛の娘が永田敬造母」
ともなっています。
既に、津山市一宮と津山市押入の両妹尾家の系図・過去帳を照合して、
「妹尾甚兵衛称舛屋宝暦六年*月*日歿 室於祢いよ新魚町平田屋後藤弥右衛門元清娘宝暦四年*月*日歿」
の娘
「かぢ」
が、
「英田郡奥村倉地傳十郎國弘妻同明正母寛延二年*月*日歿」
となっていることを知り、更に倉地家の墓地を調べて、
「國弘後室津山家中吉川氏宝暦十二年*月*日歿」
という墓碑に並んで、
「従津山永田省吾娘天明三年*月*日歿」
という墓碑があり、親類記の記載を併せて、従は「傳十郎國弘安永八年*月*日歿」の三妻と解っていました。
永田家の系譜にも省吾長女従が倉地傳十郎に嫁いだこと、及び歿年月日まで正確に記されていました。従は幼名直子といいましたが、延享四年三月二十五日に藩主長孝妻照子が女児を生んで、四月二十一日に直子と命名されたので、同月省吾長女は俊子と改名しています。宝暦三年五月、勝北郡中嶋村の農家河野惣左衛門(改桑村八郎右衛門)に嫁いでいますので、その後の経緯は不明ですが、倉地家に嫁いだのは再縁であったことが判りました。
江戸時代には、後妻、三妻は再縁であることが一般のようで、男が三度目なら、妻も三度目というようにかなり平等(?)であることが多いようです。
永田家系図には有蔵善述妻が高松屋妹尾氏となっています。玉野屋親類記では永田敬蔵母は舛屋妹尾甚兵衛の娘となっています。甚兵衛弟孫市が高松屋を嗣いでいますので、いずれにしても「妹尾宗壽の孫が永田敬造母」となるようです。
末期養子の禁にかかって領地を減らされた津山藩は文化十四年、七代藩主・斉孝のとき十万石に復しますが、文政十二年津山藩分限帳 には「七人扶持 大役人御儒者 永田敬蔵」となっています。
敬蔵の墓碑文には「先生無子以池部氏子善應為嗣」とありますが、元治元甲子年十二月に永田幸平が記した親類記によれば、敬蔵の娘は牧本立の妻となり、大年寄役補闕で中之町に住む玉置恵吉の長男幸平が跡を継いだようです。その妻は石田虎治郎伯母となっていて夫婦養子です。大年寄役補闕玉置恵吉は三室屋玉置家四代忠四郎教明(弘化四年歿)の弟で、兄の準養子となって家督を継いでいます。文化十年に札元本役となって宇左衛門と改名、更に弘化二年に恵吉教敬と改名しています(安政三年歿)。
三室屋玉置家は二代恵吉教篤が有名で、庶民教育のために書籍の購入に役立てて欲しいと白銀千枚を藩に献納しています。このように玉置家は学問を好む家ですから、永田家とも親しい間柄であったと想像されますので、恵吉の子が桐隠の跡を継ぐことになったのかも知れません。
幸平の母は備中笠岡の生長氏、恵吉教敬の父仁平教武は備中矢掛宿中西家からの養子婿ですから、どうやら果てしない系図のループに沈み込みそうです。
幸平も藩の儒者として登用され、七石三人扶持で勘定奉行支配の大役人に命ずという辞令が遺っています。明治三年六月調の津山藩士禄制席次表では「十級 禄百石 取米四拾五俵 永田幸平 田町」とあり、明治九年八月調の舊津山藩士族名簿には「家禄拾六石 幸平改永田拙蔵」とあります。
日本最初の新聞記者であり、水溶性目薬の製造販売、盲唖学校の創設、江戸横浜間の定期航路の開設など数々の偉業を成し遂げた岸田吟香(天保四年生)は永田孝平に漢学を学んでいます。
幸平の生歿年を記したものは永田家文書にはありませんでしたが、三室屋玉置家の記録に「明治十年十月歿」とありました。同年六月には長男文蔵が亡くなっていて、不幸が続きました。安政三年生の密蔵は明治七年二月に津山伝習所に入り同十五年には教員免許を貰っています。西西條郡の自成小学校、岸上小学校、琢磨小学校、切磋小学校、自修小学校の訓導(教師)を勤め、明治二十二年に免許状有効期間満期で退職しています。その後、同二十三年五月、西西條郡大野村の委嘱をうけて大野小学校に奉職する事になり、ここで明治三十七年四月まで勤めたようです。明治四十四年八月、真庭郡勝田町湯原村湯原尋常小学校訓導として赴任、それまで教師の入れ替わりが激しかった村の学校で久々に落ち着いて長く勤務してくれた先生になったようで、病気療養のために退職するに際して村有志一同が感謝の意を表しています。大正八年正月二日に六十四才で死去、それから約三十年を経た昭和二十三年三月、かつての教え子たちが中心になって墓前で法要が営まれています。田舎の小さな村ですが、密蔵先生がそれぞれの子弟に与えた影響はとても大きなものだったと思います。
永田家は森家と共に美濃から作州に移住、三代役人として仕えた後、四代省吾から学者に転向、有蔵、敬蔵、幸平と四代に亘って教育者・儒者として津山藩学の責任ある立場を担っています。こういう歴史をふまえ、先祖の名に恥じないよう励んだ結果が密蔵先生の顕彰となったように思います。
七郎胤信――+――三郎長綱――+――三郎有綱――+――忠綱――+――基綱 ――+――高基――+――高次――+ | | | | | | | +――四郎貞綱 +――四郎長経 +――長時 +――女 +――基詮 +――基次 | | 高橋六郎左衛門妻 | | | +――胤家 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 称九里氏 +――高秋 ――+――貞兼――+――七郎右衛門高宗 | 天文20 | | | +――秀宗 +――高重 ――半七郎重宗==半七郎重高――+――五郎八 +――女 | 慶安5 加藤氏 | 寛文9 青地紀伊守妻 +――高治 室可児氏 貞享1 | | 室追川氏 +==藤七定重 ――+ +――次郎右衛門高家 室永田氏 | 永田氏 | 元亀1 | 元文5 | | 室原氏 | | | +――所左衛門員之 | | 本郷家嗣 | | | +――澤子 | 花澤乗職妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――和介省吾――+――従子 | 明和3 | 河野惣左衛門妻 | 室本郷氏 | 倉地國弘妻 | | +――艶子 +――和一邦孚 | 宝永7 | 安永9 | | +――恒子 +――綱 | 宝永8 | | +――有蔵善述 ――+――敬蔵善長――+==幸平善教――+――文蔵 +――成子 | 寛政8 | 天保7 | 玉置氏 | 明治10 宝永5 | 室妹尾氏 | 室臼井氏 | 明治10 | | | 室中山氏 | 室石田氏 +――密蔵 ――+――興蔵 +――達子 | | | 大正8 | 昭和15 延享5 +――女 +――女 | 室花房氏 | 文化5 牧本立妻 | 室 +――女 | | +――二女 +――ちほの 桜井薫妻
次郎右衛門高家からあとは次のような流れになります。
次郎右衛門高家――源六郎貞高――+――清左衛門 ――+――清左衛門貞信――+――清子 元亀1 | 明暦3 | 正徳2 | 市村延重妻 | | | +――理左衛門貞元==甚左衛門貞利 +――文四郎貞恒 +――次郎右衛門貞英――+ | 元禄4 沢藤氏 | 享保9 | 享保19 | | | | | +――平左衛門 +――半左衛門貞昌 +――宮三郎 | | 貞享1 | | +――楓子 +――源兵衛祥吉 | | 大田家嗣 | +――楠子 | 須藤吉左衛門妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――次郎助――五太夫
貞高、清左衛門は森家に仕えています。元禄十一年松平候御入封侍屋鋪割帳に「林田町に森家末在住者 永田清左衛門」の記録があります。貞信は森長継に仕え、隠居して後備前岡山に移住しています。文四郎貞恒は松平宣富に、次郎右衛門貞英は備前候に仕えていますので、森家断絶の後それぞれへ再就職したようです。
元禄十一年松平候御入封侍屋鋪割帳 林田町に森家末在住者に永田清左衛門の名が見えます。
文四郎貞恒の子八十七貞清は、実は村瀬新平の子ですが、享保年中に亡命、享保十九年に大坂で客死。跡は絶えました。
享保十一年津山藩分限帳 藩主松平浅五郎様高拾萬石御時代 御勘定方に両三人扶持 永田八十七の名が見えます。
七郎右衛門高宗からあとは次のような流れになります。
永田又九里 七郎右衛門高宗――源蔵宗之――宗澄 ――+――女 寛文5 | 某氏妻 室 | +――七郎右衛門宗元――+――源兵衛元通 ――源兵衛 ――+――初子 貞享1 | 元禄15 享保12 | 室 | 室 室市川氏 +――源兵衛 ―― | | +――女 +――七郎右衛門 | 永田重高妻 | +――吉兵衛元照 ――+――宗兵衛 | 享保7 | 宝暦3 | | +――女 +――喜智子 | 山本某妻後 | | 田淵清兵衛妻 +――伊兵衛 | +――厳覚 | 元禄12 | +――定重 永田重高跡嗣
源蔵宗之は江州で生まれ美濃で生長しています。数年の浪人の後、森侯が作州に受封された時に津山城下に来ています。
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