中村家
吉備郡岡田村
古川古松軒(1728〜文化四=1807年)が記した岡田藩上士の由緒書に、
「中村氏の今の当主は次右衛門。公儀徒士の舎弟與市が伊東信濃守長貞(寛永二十=1643年〜元禄六=1693年)の若いころに仕官した。この先祖は朝鮮からの渡来人と聞いている」
とあります。
與市正利――治右衛門正方―― 正近――国治正綱―― 正摸――次右衛門正道――三右衛門正弌――+―― 正徳 ――+ 天和2 享保11 天明6 宝暦9 寛政6 嘉永4 嘉永6 | 明治34 | 室岡村氏 室青地氏 室安田氏 室中尾氏 室水内氏 室 室平井氏 | 室齋藤氏 | | | +――佐那 | | 仁科存仁妻 | | | +――規矩三正敏 | 大正13 | 室岡本氏 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――初野 | 中島寛行妻 | +―― 正章 ――+==正孝 ――+――正義 ――省三 | 昭和8 | 小川氏 | 昭和46 | | 昭和22 | 室木村氏 | | 室中島氏 | | | +――千鶴子 | +==禧一 | 三宅順妻 | 木村氏 | | 昭和13 +――正憲 | 室中島氏 板野家嗣 | +――鐵次郎 昭和8 室
正利妻は岡村新兵衛娘です。
正方の戒名は「**院殿鷲山日*大居士」、妻は岡山士官青地惣助貞次娘となっています。生前、家老級の人だったに違いありません。青地姓の墓碑もいくつか並んでいます。
古松軒の由緒書にある「先祖は朝鮮からの渡来人」というのが気になります。どの家の由緒書もせいぜい大坂の陣あたりからの歴史にふれている程度で、中世以前の記述になっている家はありません。従って、大陸との間で人の移動があった時として時代を絞ると、中村氏の先祖が渡来したのも文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)ころではないかと思います。
そこで思い出されるのは、薩摩の陶芸家・沈寿官の家です。戦乱によって朝鮮半島内の治安は乱れていましたから、大陸の知識・技術を取り入れようとする日本側の意向を理解して、海を渡った人がいたのではないかと思います。居住区の制限を受けているとはいっても、沈寿官も士分として待遇(厚遇)されています。
情報の出所が明らかではありませんが、佐藤栄作元首相が十四代沈寿官を訪ね、佐藤家(近代家系)も壬辰倭乱以後日本に渡って来た韓国系であることを告白したという話もあります。
正近の妻は安田氏、これは安田一学久品の姉妹くらいでしょうか。久品のあとを継いだ則久は国治正綱妻の弟で備中笠岡代官所手代中尾某の男文助です(参考)。安田家も古松軒の由緒書に「先祖は朝鮮からの渡来人」とあるので、興味深い縁組みです。
古松軒と同世代の当主は正道となるようです。
正弌の妻は岡山藩平井又右衛門娘、正敏妻は穂井田村陶の岡本貞次郎長女です。
正徳妻の墓には「備前天城藩家老齋藤長兵衛女孝」とあります。
私の曾祖母花の実家・渡邉家の過去帳に、この齋藤家先祖の法名が三名(長兵衛光旦の両親と祖母)記されていることから、花の祖母(渡邉章助保富の妻)が長兵衛光旦の姉妹になるのではないかと考えて来ました。中村家の系譜をみると、齋藤、仁科家との重縁関係後、中島家と重縁を結んでいます。渡邉の分家と中島家との縁戚関係はこういうつながりが背景にあってのことではないかと思われます。
正孝は後月郡青野北山小川政太郎三男、禧一は倉敷市浜木村官太郎長男となっています。
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