池田家
西北条郡津山町中之町




中之町池田家には箕作秋坪から宛てられた年始の手紙が遺っています。

改暦之禧慶際限不可
有愛度申納候先以御健固
御揃御越年可被成重畳
之御義奉拝賀候随而當方
皆々無異迎昜致候乍憚御放
念可被下候先者右年始之
御祝詞申述度如比御座候猶
期永易之時候恐惶謹言
 正月三日  箕作秋坪 (花押)
 池田丈右衛門様
 池田喜四郎様
    人々御中
尚々皆々様御祝詞被御傳被下
度奉御申候誠平生御無音
耳打己甚意外之至御座候
御別御海容奉御申候時下折角
御保愛専一被成候様奉存候 以上

「戸川家玉野屋親類記」に、
「池田氏吉徳君者予父親仁君之御舎弟ニ而予伯父ナリ同苗喜四郎吉實妻者予實之妹也」
という記述があります。解読すると、
「池田丈右衛門吉徳は私(京助武仁)の父戸川藤助親仁の弟で、私の叔父である。池田喜四郎吉実の妻は私の実妹である」

以上から、中之町池田家は養子丈右衛門吉徳のあと喜四郎吉實が相続し、吉實夫婦はいとこ同士の結婚と理解できます。
しかし、次のような口伝があります。
丈右衛門夫婦には子が出来なかったために、後藤家から喜四郎を養子に迎えたところ、その後次々に丈右衛門夫婦に子が出来たので、喜四郎は復籍した。

また、次のような口伝があります。
「戸川鶴蔵吉清は子がなく、叔父池田丈右衛門吉徳の三女愛を養女とした、愛の実母は箕作秋坪のいとこである」


妙法寺過去帳によると、
 等覚軒宗悟日成信士 安政四(1857)年四月七日 池田丈右衛門
 園林院妙秋日紅信女 嘉永五(1852)年九月八日 池田丈右衛門妻
ですが、この夫婦の墓は現存しません。また、喜四郎はもちろん、喜四郎妻の墓もありません。
寺の過去帳には、
 是性院妙達日相 慶應二(1866)年 林田玉野屋丈助母
という記述がありますが、これが喜四郎妻=戸川京助武仁の妹と思われます。


丈右衛門夫婦の子で、歿年・享年が確認できているのは、
 丈助 明治八年十月十五日歿年三十五開法院宗達日観居士(1875-35=1840)
 尚 明治三十四年三月十四日歿年五十四尚徳院貞室妙薫淑英大姉(1901-54=1847)
 愛 昭和三年十月三日歿年七十九善道院妙行日愛大姉(1928-79=1849)
藤助親仁は、
天保十二年十月十一日歿於入村年五十六常在院咸皆日藤居士(1841-56=1785)
藤助親仁と丈右衛門吉徳の母は、「親類記」に「明和某(1764〜1772)年正月生」とありますから、丈右衛門が季子として1800年頃の生まれ、妻が1810年頃の生まれとすれば、何とか辻褄が合いそうです。

箕作秋坪の母の実家である後藤家の系図を調べてみると、愛の実母が津山藩士後藤佐野右衛門基義とサトの間に生まれた四女であることが判りました。愛の伯母は備中下砦部(しもあざえ)村の津山藩預所教諭所都講を勤めた菊池士郎(文理)の妻となり、その子の秋坪(しゅうへい、愛の従兄)は幕末の蘭学者箕作阮甫(げんぽ)の養子となっています。愛と秋坪はいとこ同士です。阮甫の妻も戸川吉仁妻の実家である妹尾家の人であることが判っています。

丈右衛門吉徳==喜四郎吉実――+――丈助    ――+――和平  ――+――寛一
戸川氏     後藤氏    |  明治8     |  昭和32  |  昭和35
安政4            |  室内田氏    |  室高木氏  |
後藤氏    室戸川氏   |          |        +――秀夫
               +――照       +――豊次郎   |
               |  須々田家嫁            |
               |                   +――健治  ――+――A
               +――高                   平成10  |
               |  小山仙蔵妻後              室今岡氏  |
               |  為本金治郎妻                    +――Y
               |
               +――尚
               |  治部友次郎妻
               |  転法輪恵隆妻
               |
               +――愛
                  戸川吉清養女



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